キリノ政権(1948年-1953年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:29 UTC 版)
「フィリピンの歴史 (1946年-1965年)」の記事における「キリノ政権(1948年-1953年)」の解説
キリノはマニュエル・ロハスが死んだ二日後に宣誓をして1948年4月17日に大統領職を引き受けた。1949年に戦時大統領で国民党のホセ・ラウレルが民主主義における特に賄賂が横行する行為と評する行為についてキリノに対抗して立候補した。一般に歴史学者はラウレルが選ばれたことを受け入れているが、ラウレルはキリノの力による勝利宣言に対抗することを拒絶した。 キリノは男やもめであったので、生き残った娘ヴィッキー(英語版)が正式な女主人として扱われ、伝統的にファーストレディー(英語版)と言われる機能を果たした。 キリノ政権は共産主義のフクバラハップ運動の結成で深刻な脅威にさらされた。フク団は元々ルソンでの反日ゲリラであったが、共産主義者が着々と指導部の支配を固め、フク団司令官ルイス・タルクとのキリノの交渉が1948年に失敗に終わると、タルクは公然と自分は共産主義者であると宣言し、政府の転覆を呼び掛けた。 大統領としての5年間は、著しい戦後復興や総合的な経済発展、アメリカ合衆国からの増大する経済援助に彩られた。しかし特に農村部の基本的な社会問題は、解決されないままで、政権は広範な賄賂に汚された。 1953年、第2期に朝鮮戦争が始まり、フィリピン朝鮮遠征軍(英語版)(PEFTOK)の名称の下で7450名を超えるフィリピン人兵士が朝鮮に送られることになった。 病気ではあったがキリノは1953年に再選を目指して立候補したが、圧倒的にラモン・マグサイサイに敗れた。
※この「キリノ政権(1948年-1953年)」の解説は、「フィリピンの歴史 (1946年-1965年)」の解説の一部です。
「キリノ政権(1948年-1953年)」を含む「フィリピンの歴史 (1946年-1965年)」の記事については、「フィリピンの歴史 (1946年-1965年)」の概要を参照ください。
- キリノ政権のページへのリンク