カルマト派の反乱とは? わかりやすく解説

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カルマト派の反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 04:13 UTC 版)

カルマト派」の記事における「カルマト派の反乱」の解説

899年、サラミーヤで政変起こりイスマーイール派再び分裂起こした。サラミーヤの中心部掌握したイスマーイール派少数派指導者が、ムハンマド・イブン・イスマーイールはすでに死んでいて、サラミーヤの今の指導者こそが再び姿を現し正当なイマーム後継者であるという主張展開し始めた。カルマトとアブダーンはこれに公然と反対し、サラミーヤ政権との関係は決裂した。アブダーンは暗殺され、カルマトはいったん身を隠したが、後悔して主張改めファーティマ家のウバイドゥッラー・アル=マフディー (873年934年)がイマームであるという教え伝道するようになったウバイドゥッラー909年北アフリカファーティマ朝建国することになる。 しかしカルマトが転向したあとも、かつての彼の支持者たちはカルマト派名乗って活動続けた。彼らの最大拠点バーレーンであった。この時代バーレーン現代バーレーン王国存在するバーレーン島のみならず、東アラビア広大な領域指していた。9世紀末まではアッバース朝統治にあったが、バスラ発生したザンジュの乱により、バグダードからの統制力弱まっていた。アブー・サイード・アル=ジャンナービー率いカルマト派899年バハレーン主要都市ハイルアハサー占領し理想国家建設目指した。 カルマト派は、ある学者が「恐怖世紀」と呼んだような混乱クーファ引き起こした。彼らはマッカ巡礼迷信の類と考えていたため、バーレーン拠点としてアラビア半島中の巡礼路襲った906年にはマッカから帰る途中巡礼団を襲い、2万人巡礼者虐殺した。 アブー・ターヒル・アル=ジャンナービー (在位: 923年944年)の時代カルマト派927年バグダード襲い930年マッカマディーナ占領した。この二大聖地を占拠した彼らは、ザムザムの泉ハッジ巡礼者死体投げ込んで冒涜し、黒石アハサー持ち去った。これは身代金目的とした行動で、アッバース朝952年莫大な金を支払って黒石取り戻した。 カルマト派の反乱と聖地冒涜は、イスラーム世界震撼させるとともにアッバース朝権威を地に墜とすことになったアッバース朝はほとんど彼らに対応することができず、カルマト派10世紀大部分にわたりペルシア湾および中東最強勢力であり続け通商要地であるオマーン海岸地帯支配しバグダードアッバース朝カリフカイロファーティマ朝イマームカルマト派はその正統性認めていない)から貢納金をせしめていた。

※この「カルマト派の反乱」の解説は、「カルマト派」の解説の一部です。
「カルマト派の反乱」を含む「カルマト派」の記事については、「カルマト派」の概要を参照ください。

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