ウクライナ大飢饉への責任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:03 UTC 版)
「ラーザリ・カガノーヴィチ」の記事における「ウクライナ大飢饉への責任」の解説
詳細は「ホロドモール」を参照 スターリンの指示のもと、カガノーヴィチはヴャチェスラフ・モロトフとともに1930年の全ウクライナ党大会に参加し、ウクライナにおける集団化政策を積極的に奨励し、数百万のウクライナ人が死んだ1932年から33年の悲劇的なホロドモール(ウクライナ大飢饉)をもたらした。同様の政策はまた、中央アジアのカザフスタン共和国や、クバン、クリミア、下ヴォルガ、その他ソビエトの各地方においても、多大な苦痛を与えることとなった。共産党中央委員会の使者として、カガノーヴィチはウクライナ、ロシア中央部、北カフカース、シベリアを旅し、農業の集団化と、「富農」とその支援者(一般に集団農場化の遅れの責任を押し付けられた人々)に対する抑圧の促進を要求した。例えば北カフカースの指導部に圧力をかけてクバンの3スタニツァ(ポルタフスカヤ、メドヴェトコフスカヤ、ウルプスカヤ)の全員を(全体で4万5000人)完全に国外追放させた。カガノーヴィチは、モロトフ、パーヴェル・ポストゥイシェフ、その他ソビエト連邦のスターリン主義指導者たちと共に、指導者スターリンの指示を忠実に実行した者として飢饉に責任があるとされる。
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