ウェスパシアヌスとティテゥスの治世
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「ドミティア・ロンギナ」の記事における「ウェスパシアヌスとティテゥスの治世」の解説
68年6月9日にネロが自殺し、ローマ帝国は四皇帝の年として知られる長い内戦の年に突入する。ガルバ、オト、ウィテッリウスの3人が続けざまに蜂起しては失脚し、ウェスパシアヌスの即位でこの内戦は終結する。ウェスパシアヌスは帝国の平和を再度確立し、短期に終わるフラウィウス朝を創設する。71年にウェスパシアヌスは、息子のドミティアヌスと彼の兄の娘であるユリア・フラウィアとでの王朝的な近親婚の取り決めを試みる。しかしこの頃には既に、ドミティアヌスはドミティア・ロンギナとの恋に落ちていた。そして、首尾よくラミアを説得して離婚させ、ドミティア・ロンギナと結婚した。このような強引さにもかかわらず、この結婚は両家にとって名声を上げるものとなった。この結婚がコルブロ家の名誉を回復すると同時に、一方ではユリウス=クラウディウス朝の悪帝配下でのウェスパシアヌスの政治的成功を減少させるプロパガンダが広大に行なわれた。それどころかクラウディウス帝やその息子ブリタンニクスとの関係が目立たせられ、ネロによる犠牲者や他の方法でネロに不遇に扱われた人々が復権させられた。 ドミティアは73年に息子を出産するが、77から81年の間に夭折している。この子供の名前は伝わっておらず、またこの子の他にドミティアとドミティアヌスの子供は確認されていない。 この間に、ドミティアヌスのフラウィウス政府での役割は大部分として形式的なものになっていく。兄のティトゥスは父とほぼ同等の権力を共有する一方で、ドミティアヌスは栄光から離され責務はなくなった。この状態は、79年6月23日にティティスが皇帝としてウェスパシアヌスの後を継いだ時も変わりなく継続された。古代から近代に至るまでの執筆者たちはこうした状態について、兄弟に確執があったためではないかと考えている。80年、ティトゥスはドミティアの前夫であるアエリウス・ラミアに補充執政官資格を授ける。グセルによると、これはドミティアヌスを嫌った個人的な侮辱としてなされた。ティティスがラミアに再び結婚する様に強く迫った違うおりに、ラミアは「彼も妻を捜している」かをどうか尋ねた。 81年9月13日、地位についてわずか2年程でティトゥスは熱病で急死する。彼の最後の言葉は、「私は、わずかに1つの間違いをした」であったと伝えられている。当時の歴史家スエトニウスはドミティアヌスが兄の死に関与した疑いを推測している。その根拠はティティスはドミティアと不倫関係にあったと言う噂が当時広まっており、ティティスの最後の言葉はこの噂に起因しているというものである。しかしながら、スエトニウスでさえもこの話は余りに疑わしいとして退けている。 9月14日、元老院はドミティアヌスをティトゥスの後継者として承認し、護民官職権、最高神祇官の地位、アウグストゥスと国家の父の称号を授けた。その結果として、ドミティア・ロンギナはローマ皇后となった。
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