イタリカ【Itálica】
イタリカ
イタリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 04:31 UTC 版)
彼らはパエリグニの首都コルフィニウムを全イタリック人の首都とし、そこに軍隊を召集して「イタリカ」と命名した。彼らは権利を得るまで2年間戦い続け、マルシ人が反乱を起こしたためマルシ戦争とも呼ばれたが、これはポッパエディウスによるところが大きい。 ストラボン『地理誌』5.4.2 イタリック人の反感の高まりを受け、ローマは各地に前政務官権限を持つ監視員を派遣した。マルシ人、サムニウム人、ルカニア人(英語版)、カンパニアなどに送られたが、紀元前91年末、そのうちの一つアスクルムで、ピケンティ人を監視していたプラエトル、クィントゥス・セルウィリウスが殺害される事件が起った。恐らくマルシ人と思われるクィントゥス・ポッパエディウス・シロ(英語版)らによって反乱が起こり、彼らはローマに対抗するため独自の国家設立を宣言し、イタリカ、もしくはイタリアと名乗った。エルンスト・バディアン(英語版)らは、キンブリ・テウトニ戦争でのイタリック兵の活躍と、ガイウス・マリウスら地方のノウス・ホモの活躍によって、イタリック人が自信を持ったのではないかとしている。
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