イギリス軍の処置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:52 UTC 版)
「ヨークタウン方面作戦」の記事における「イギリス軍の処置」の解説
降伏の交渉は2つの問題で複雑化した。1780年に大陸軍がチャールストンで降伏したとき、彼らは軍隊旗を維持し、敵の軍楽を演奏するということを含め、降伏の伝統的な条件を認められなかった。ワシントンはこれらの条件がヨークタウンで降伏したイギリス軍に適用させることを主張し、その公証人は守備隊がどちらの場合にも勇敢に行動したことを指摘した。2つ目の問題はイギリス軍宿営地に居たロイヤリストの処遇に関することだった。この問題はイギリスのスループ艦ボネッタが如何なる種類の検閲も無しにコーンウォリスの伝令を乗せてニューヨークに向かわせるという条件を付け加えることで解決された。逃亡奴隷やロイヤリストが乗船しているかもしれないというアメリカ側の疑念があったが、艦内捜索は妨げられることになった。 イギリス軍守備隊は10月19日にその陣地から行進して出てきたとき、その軍隊旗は箱に入れられ、おそらくイギリスの音楽「世界がひっくり返った」(The World Turned Upside Down)を演奏していた。コーンウォリスは病気だと主張して儀式には参列せず、副官のオハラ将軍にその剣を届けさせた。オハラはまずそれをフランス軍の士官に渡そうとしたが、ワシントンの士官の一人であるベンジャミン・リンカーンに渡すよう指示された。リンカーンはチャールストンで敗北を喫したときの指揮官だった。リンカーンは差し出された剣を短時間保持し、その後にオハラに返した。 その後の数週間イギリス兵は護衛されてバージニアとメリーランドの宿営地に移動した。コーンウォリスなどの士官は仮釈放でニューヨークに戻され、イングランドに戻ることを許された。1781年12月にコーンウォリスが乗船した船には、ベネディクト・アーノルドとその家族も運んでいた。
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