イギリスにおけるリュジニャン家
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「リュジニャン家」の記事における「イギリスにおけるリュジニャン家」の解説
詳細は「en:French invasion of Normandy (1202–1204)」および「第2次バロン戦争」を参照 一方で、1199年ジョンがイングランド王位に就いた時、フランスではユーグ・ル・ブルンが、他のポワトゥーの大多数の領主同様、リチャード1世の後継者としてブルターニュ公アーサーを再び選んだ。アリエノール・ダキテーヌはジョン王支持と引き換えにイングランド側の要求を断念した。ラ・マルシュにおけるユーグの立場を保証するため、妻を亡くしていたユーグは敵対していたアングレーム家の娘イザベル・ダングレームとの婚約が取り決められた。しかし1200年8月、ジョン王は自身がイザベルと結婚し、ユーグ・ド・ラ・マルシュとその弟からノルマンディーのウーの地を取り上げた。権利を侵されたリュジニャン家は、君主であるフランス王フィリップ2世に頼った。フィリップはジョンにフランスへ来るよう求め―それは戦略的に不可能であったが―、ジョンが反抗的な臣下であると宣言した。リュジニャン家の支持者はアーサーとアリエノールの両者を拘束しようとしたため、1202年7月、ジョンはミルボー城でその突然の実力行使に驚き、ユーグを200人のポワトゥー人戦闘員と共に幽閉した。ジョン王のこの野蛮な行動によりジョン王の形勢は不利となり、フランスの貴族はジョン王を見捨てるようになった。このリュジニャン家の反乱により、イングランドはフランスにおける領地の半分を失うこととなり、すぐにフィリップ2世によりフランスに併合された(残り半分のアキテーヌはいまだ生きていたアリエノールが領有していた)。ジョン王は1216年に死去し、息子ヘンリー3世が王位を継ぎ、王妃イザベラは1220年にユーグ10世・ド・リュジニャンと結婚し5人の子をもうけた。 ウィリアム・ド・ヴァランスは、ギヨーム・ド・リュジニャンとして、ラ・マルシュ伯ユーグ10世とジョン王の王妃であったイザベル・ダングレームとの間に生まれた。1247年、異父兄ヘンリー3世の要請を受けて、ウィリアムは2人の兄弟とともにフランスからイングランドに移住した。王はすぐにこの兄弟を権力の座につけ、ウィリアムを初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの孫娘で女子相続人のジョアン(1307年没)と結婚させた。ヴァランスは領地とペンブルック伯位を得て、イングランドで莫大な財産と権力を手にした。結果として、ヴァランスは嫌われ、第2次バロン戦争に巻き込まれ、6代レスター伯シモン・ド・モンフォール率いる反乱軍と敵対する王および王子エドワードを支持した。1265年、イーブシャムの戦いにおいて最終的に反乱軍に敗北を喫した後、ウィリアムは1296年に死去するまで、ヘンリー3世およびエドワード1世に仕えた。 ウィリアムの長男エイマー(1265年頃 - 1324年)が父親の跡を継いだが、母ジョアンが亡くなる1307年まで正式にはペンブルック伯とは認められなかった。エイマーは1306年にスコットランドの守護者に任ぜられたが、エドワード2世が即位し、寵臣ピアーズ・ギャヴィストンが権力を増大させると、エイマーの影響力は低下した。彼は不満を持つ貴族らの中心となったが、1312年、10代ウォリック伯ガイ・ド・ビーチャムがエイマーを裏切りギャヴィストンを捕え処刑した後、エイマーは仲間から離れ、王側についた。ヴァランスは1314年のバノックバーンの戦いに参加し、後にエドワード2世が2代ランカスター伯トマスを倒す際に手助けをした。しかし、1324年にエイマーが死去したときには、エイマーは宮廷から遠ざけられ、経済的に困窮していた。エイマーの妻であるマリー・ド・シャティヨンは、イングランド王ヘンリー3世の子孫であり、ペンブルック・カレッジの設立者である。
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