アーノルドとの衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/28 15:19 UTC 版)
「モーゼス・ヘイズン」の記事における「アーノルドとの衝突」の解説
アーノルドがモントリオールの指揮権を執ったことに続いて、ヘイズンの連隊はシャンブリー砦の守備隊任務を与えられた。ヘイズン(およびその兵士)はザー・シーダーズの戦闘に対する大陸軍の反抗を支援する援軍として呼ばれた。作戦会議でヘイズンとアーノルドはどのような行動をとるべきかについて白熱したやり取りを行い、アーノルドの意見では命令不服従の域に達していた。アーノルドはそれ以前にヘイズンについて高い評価をしており、ヘイズンは「分別が有り、賢明な士官であり、この国を知悉している」と記していた。 1776年5月と6月に大陸軍がケベックから撤退する間、ヘイズンとアーノルドは告発と反論の告発、軍法会議やその他の審問などに繋がる論争に巻き込まれ、これが1779年まで続くことになった。問題はアーノルドがモントリオールの商人から徴発し、シャンブリーに送って、退却の一部として南に運ぶよう命じた物資のことだった。ヘイズンはシャンブリーの施設を担当しており、その物資がモントリオールの友人の資産であると分かったために、その物資の運び出しを認めることを拒んだ。それに続く退却の中で、これら物資の大半は略奪され失われた。アーノルドは即座にヘイズンを命令に従わなかった廉で軍法会議に掛けることを望んだが、イギリス軍が接近した為に、タイコンデロガ砦に戻るまでそのようなことはできなかった。アーノルドのヘイズンに対する意見ははっきりと変わった。「これはヘイズン大佐が命令に従わなかった最初の機会でも最後の機会でもなかった。彼が就いているポストに対してあまりに出すぎた男だと思う」と記した。 ヘイズンの軍法会議は1776年7月19日に開かれ、見事に無罪となった。しかし、その過程には異例のことがあり(判事側弁護士はモントリオールからシャンブリーまで物資を運んだまさにその士官であったので、証言しなかった)、アーノルドはその後もヘイズンを攻撃し続けた。1776年12月、別の審問が開かれ、ヘイズンはまたしても悪事をしていないとされた。続いてヘイズンがアーノルドをモントリオールの商人から略奪したと告発した。アーノルドは1779年までこの容疑を晴らすことなく、その時には既にイギリスへの寝返りを考えていた。
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