アレクサンドリアの占領とギーザの要塞化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:34 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (919年-921年)」の記事における「アレクサンドリアの占領とギーザの要塞化」の解説
ファーティマ朝軍の前衛部隊が919年7月9日にアレクサンドリアの前に到着し、カーイムの率いる本隊は9月から10月の間に到着した。アレクサンドリアの知事であったズカーの息子のムザッファルは、919年7月のファーティマ朝の遠征軍の到来に驚き、側近や多くの住民とともに戦わずして逃亡した。アレクサンドリアはかつて一度ファーティマ朝の統治権を受け入れていたために、即座にこの逃亡は反乱を起こしたものとみなされ、都市はファーティマ朝の軍隊による略奪を受けた。 ズカー・アッ=ルーミーの状況は危機的であった。前回のファーティマ朝の侵攻時にはフスタートの住民の大部分は都市を守る努力を支援するべく都市に留まり、戦闘のために武装していたが、今回はパニックが広がり、資産を持つ人々はエジプトを離れてシリアに逃れた。さらに守備隊は俸給の不足によって戦意を欠いており、実際に多くの将校が自身の部隊とともにパレスチナへ逃亡した。 914年の時と同様に、ズカーは少数となった部隊をフスタートからナイル川を挟んで対岸に位置し、ローダ島とフスタートを結ぶ舟橋が架かっていたギーザに集中させた。そして橋頭堡の防備を強化し、自軍のために砦と要塞化された陣地を築いた。そしてその直後には新しいエジプトの財務長官であるアル=フサイン・アル=マーザラーイー(英語版)が未払いとなっていた俸給を常備軍へ支払うのに十分な資金を携えて到着した。しかしながらズカーは8月11日に死去し、後任としてズカーの前任者であったタキーン・アル=ハザリーが再びエジプト総督に任命された。タキーンがフスタートに到着したのは920年1月になってからであったが、着任後すぐにギーザの陣地の周囲へ二つ目の掘を築くように命じた。
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