アメリカ合衆国の関与
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「インドネシア共和国革命政府」の記事における「アメリカ合衆国の関与」の解説
東南アジアを専門とする歴史学者のオードリー・カヒンは、PRRIの反乱には実際にアメリカ合衆国、特にCIAの深い関与があったことを明らかにした。PRRIは単なるインドネシア国内の問題ではなく、米国とソビエト連邦が冷戦のなかで行っていた世界に対する影響力の競争と密接に結びついている。西側諸国の代表として反共主義的な政策をとっていた米国は、インドネシアにおけるインドネシア共産党(PKI)の伸長を警戒しており、反共を公言する地域への支援をこころみていた。またバンドン会議に代表される、スカルノ大統領の非同盟運動的な外交姿勢も米国の疑念を呼んでいた。 しかしその過程において、結局CIAはPRRIを見限り、ジャカルタ政府とABRI、スカルノ大統領へ支援の軸足を移していった。直接のきっかけとなったのは、1958年5月18日、インドネシア軍がCIAの工作員アレン・ローレンス・ポープ(英語版)とプルメスタ革命空軍(AUREV)の通信士ヤン・ハリー・ラントゥンが搭乗する爆撃機を撃墜し、2人を拘束したことだった。そのとき戦闘空域にいたAUREVの他の航空機には急いで塗りつぶされた中国国民党のラウンデルがあり、その操縦士は中国人とアメリカ人であったと報告された。 米政府はインドネシアが分裂崩壊し新たに共産主義政権が誕生するという危惧を抱いていたが、中央政府の優勢を見てこの予測を再考しなければならなくなった。結果としてPRRIを支援することは、インドネシアにおける共産主義の影響を排除するために必ずしも有効な手段ではなくなったと判断された。PKIをはじめとする共産主義グループの影響力を抑える代わりに、米国はスカルノとABRIの士官たちを支持するようになった。
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アメリカ合衆国の関与
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「カタンガ共和国」の記事における「アメリカ合衆国の関与」の解説
ソ連にサポートを求めたことで、パトリス・ルムンバはアメリカにとって最悪の事態を招くことになる人物として危険視されるようになった。アメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと彼の政権の閣僚は独立宣言の中で勢力を伸張するソ連と戦う意思を公言したカタンガをコンゴにおける最後の「反共の砦」と見なすようになった。エリザベートヴィル駐在のアメリカ領事は彼の政府を承認しないことを「敵意として解釈すべきではない」とチョンベに伝えるように指示された。 アイゼンハワーの後継のジョン・F・ケネディはアメリカの庇護下に樹立されたコンゴ中央政府のシリル・アドゥラ(英語版)政権を支持し、前任者とは対照的に、カタンガの分離活動を終結させるように努める政策を採用した。カタンガの分離活動が終了した1963年1月21日に、ケネディは「分離の終わりが・・・合衆国やコンゴとアフリカ全体の未来に関心を持つ全ての人々に暖かく歓迎されている。この分離は争いの主要な原因となり、ここ2年半もの間、コンゴの進歩にとって障害になっていた。」と公式声明を発表した。
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