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アダルトビデオの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/12 04:46 UTC 版)

アダルトビデオ > アダルトビデオの歴史

アダルトビデオの歴史history of adult video)では、日本においてアダルトビデオ(通称AV)と呼称される性的興奮を呼び起こすことを目的とした成人向けビデオの歴史について詳述する。

目次

アダルトビデオの誕生

一般にアダルトビデオと呼ばれる作品の第一号として知られるのは日本ビデオ映像が1981年5月に発売した『ビニ本の女・秘奥覗き』及び『OLワレメ白書・熟した秘園』と言われている[1]。この作品は日本で初めてビデオ撮りされたポルノ映像で、それ以前の日活ロマンポルノなど、劇場公開されるポルノ映画とは異なるまったく新しい独自の流通を目指した新商品として製作された作品であったことがその理由である[1]

このポルノ作品は業界に大きな波紋を広げ、1981年7月、にっかつビデオフィルムズは『生撮りシリーズ』を刊行した。同年11月、愛染恭子の『愛染恭子の本番生撮り 淫欲のうずき』が発売され、「本番」という演出法が男性を刺激し、2万本を超える大ヒットを記録した[2]。この作品で一躍ビデオ作家としての確たる評価を得た監督の代々木忠は、1982年8月には『ドキュメント ザ・オナニー』シリーズを刊行、従来のビデオ撮りという手法は用いているもののそれまでのポルノ映画の演出法を引継いだ劇映画調の作品からの訣別を図った。

『ドキュメント ザ・オナニー』シリーズは81年にビニ本業界の大手、ハミング社がビデオ部門として設立した宇宙企画のビデオと共に後のアダルトビデオ業界の方向性を決定付けたとも言われており、『ビデオ・ザ・ワールド』(85年4月号)において中村正平は「お手軽ポルノドラマが全盛だったご時勢に宇宙企画の出した『素人生撮り』シリーズは"動くビニ本"といった趣を持つビデオとしてのメディアに覚醒した画期的なもので、ポルノビデオの方向性を決定付けた。このインタビューオナニー形式は代々木忠の『ドキュメント ザ・オナニー』シリーズで完成され、空前のセールスをあげた。」と評している[3]

中でも後のアダルトビデオという造語を創出した[4]小路谷秀樹は宇宙企画の初期人気作品を多数作り上げた監督の一人で、1982年の『女子高生素人生撮りシリーズ 美知子の恥じらいノート』や『SM体験 早見純子の場合』『実験SEXデート』などの作品を世に送り出してヒットさせ、アダルトビデオ市場は「ドキュメントもの」と呼ばれる作品が大半を占めるようになった[3]

当時、自主規制機関である日本ビデオ倫理協会は、3分以上の連続した性交描写を許可しておらず、ハードコアの表現を規制していた[5]。こうした背景と、ビデオデッキの普及から裏ビデオと呼ばれる作品がブームを巻き起こす[5]。こうしたビデオは家電量販店のビデオデッキ購入景品として出回り、『洗濯屋ケンちゃん』や田口ゆかりの『サムライの娘』『ザ・キモノ』などの作品が多くの庶民の手に渡った[5]。表ビデオ業界はそれまでのドキュメントものやソフトコアでは対抗できないと危機感を募らせる。そんな中で1984年1月、宇宙企画が発売した『ミス本番 裕美子19歳』は、業界に大きな衝撃を与えた。それまでの表ビデオの作品にも本番を謳うものは存在していたが、旬を過ぎたワンランク下のモデルが担当するジャンルであり、SMやスカトロ同様のキワモノ的な扱いだった[6]。ソフトヌードで充分通用するレベルのモデルが、いきなりハードコアでデビューするという、常識を覆した作品[3]であった『ミス本番 裕美子19歳』は2万本を超える大セールスを記録し、『ミス本番』シリーズとして宇宙企画におけるトップブランドに君臨した。その後の小路谷秀樹の『私を女優にしてください「何でもやります」竹下ゆかり19歳』、『ミス本番 有希子めぐり逢い』などのヒットにより、女優の清潔感がセールスの上での重要な演出点であることが確立されると、本番の有無よりも女優としての質にこだわりが見られるようになり、1984年末から1985年にかけて、第一次美少女ブームと呼ばれる時代が訪れた。渡瀬ミク、早川愛美、永井陽子、杉原光輪子、森田水絵中沢慶子などの人気モデルに加え、いわゆる本番をしない小林ひとみ麻生澪秋元ともみなどの女優が誕生した[7]。『ミス本番』で開放的なセックスを演じた吉沢有希子も早見瞳に改名後は本番を拒否し、『GORO』のインタビューにおいて、「そういうことは自分の好きな人とだけがいいと思います。」と述べている[8]

「美少女が本番行為をする」という起爆剤で以って一般に広く認知されたアダルトビデオは、「美少女」の要素のみを拡大させて行き、やがて「擬似本番」という言葉とともに、直接の性行為からリアルな感情を引き出す演出法は衰退し、「アダルトビデオで演技をする人」いわゆるAV女優という言葉を生み出した[9]

淫乱の時代

1985年4月、『ドキュメント ザ・オナニー』を輩し、ソフトポルノ路線を展開していた日本ビデオ映像が9億円の負債を抱えて倒産する。これは撮影所方式世代の時代の終焉を告げる象徴的な事件であったと同時に、アダルトビデオ業界変革の前哨でもあった[10]。ビデオレンタル店の増加や新風俗営業法の施行に伴い、それまで、裏ビデオをメインに独自の通信販売で商品を流通させていたメーカーが相次いでビデ倫に加盟し、市場の拡大とアダルトビデオ業界の体質の変化が加速した。特にSMメーカーの御三家と言われたアートビデオシネマジック、スタジオ418の加盟は大きな衝撃を与えた[11]

豊田薫はこの時代を象徴する作品を数多く手掛けた監督で、ビデ倫の規制基準と度々衝突した。特に1985年7月の『マクロ・ボディ 奥まで覗いて』の下着越しのフェラチオ、『ザ・KAGEKI2 黒くぬれ!』や『侵犯! 恥骨の森』などの膣内のクローズアップ映像に見られるハードな描写は同業他社の内容面の補強と見直しを余儀なくさせた。

一方、村西とおるもこのころにデビューしており、池田理代子横須賀昌美を起用したソフトポルノを制作していたが、営業的な成功は見られず、本番ビデオ路線へと傾斜していき、1985年、『恥辱の女 立川ひとみ』を発売した。『ビデオ・ザ・ワールド』(86年3月号)で実施された「1985年度アダルトビデオリアルベストテン」において同作は1位に選出され、村西はその名声を確固たるものとした[12]。村西は月産約6本という異常な乱作形式を採っており、そうした中で営業的な成功を収めるのは、決まって粗製乱造された本番ポルノであった。やがて、自身も作品内に男優として出演するようになり、1986年10月、伝説となったアダルトビデオ、黒木香の「SMっぽいの好き」が登場することとなる[13]

レンタルビデオ店のアダルトコーナー

黒木の登場は再び「本番」という行為に対しての強力なまでの影響力を認識させると共に、ルックスで劣る女優たちにとっても過激な性感表現を駆使することで高い出演料を手にすることが出来る機会があることを確信させた。黒木に続けとばかりに過剰な痴態表現を見せることを売り物にする「淫乱女優」が次々と登場し、咲田葵、沖田ゆかり、亜里沙、朝吹麻耶、豊丸沙也加、有希蘭といった女優たちが成功を手中に収めた。大根などの異物挿入やペニスの2本同時挿入など、多数の過激な性戯に挑戦してきた豊丸は後のインタビューで「黒木のAVを見て、こうしたことに挑戦したいと思っていた」と、その影響を語っている[14]。また、90年代に入って前戯技術研究の進化と共にGスポット刺激による普遍的反応として確立された潮吹きは、沖田ゆかりが『いんらんパフォーマンス 色即是空』で見せることによっては一世を風靡し、本番をしない美少女系女優にも伝播し[15]、現代においては女性のオーガズムを映像表現する代表的手法として多くのアダルトビデオに取り入れられている[15]。この時代、美少女路線のソフトポルノと、淫乱路線のハードコアの二種類の路線を機軸として日本のポルノ認知は社会的な拡大を見せた。村西とおるや黒木香が頻繁にテレビのゲストとして登場するなどメディアの力も獲得して芸能界への侵食を開始した。

一方で、レンタルビデオショップの店舗数は臨界点に達し、激しい価格競争が行われるようになった。1985年に1200円だったレンタル料金はみるみる下落し、100円レンタルを標榜する店舗まで出現した。大型チェーン店の競合店舗駆逐策に対し、個人経営のビデオレンタルショップは独自性を見出すために、「無審査ビデオ」「インディーズ・ビデオ」などと銘打ったビデ倫の審査を受けていないビデオを店頭に並べるようになった。1987年に主流となった「シースルービデオ」と呼ばれるモザイクの薄い、性器の透過性の高い商品が需要を伸ばした。こうした商品は摘発の危険性を避けるためにメーカー所在地をパッケージに記していないことがほとんどで、警察はビデオレンタル店をわいせつ物の頒布で度々摘発した。

警察とアダルトビデオ業界の対立は年々激しくなり、警察側はモデル供給源の遮断が急務と捉え、1988年1月、トゥリード、富士総合企画など大手モデルプロダクション4社を摘発した。しかしこの摘発根拠は「労働者派遣法」及び「職業安定法」で、警察がモデルプロダクションを「管理売春」で立件できない実情を明らかにさせてしまう結果となり、業界内には安堵感が広がった[16]

1989年3月、女子高生コンクリート詰め殺人事件という凄惨な事件が発生し、同5月、アイビックにより同事件が作品化されたという報道が週刊誌でなされ、世論に大きな衝撃を与えた[17]。これに対してビデ倫は6月5日、「記憶に生々しい社会的事件を題材として取り上げないように」との通達を出したと同時に、「セーラー服」や「少女」など、未成年を示唆する言葉やタイトルの使用禁止を規定した。さらに同年7月21日、15歳の少女であった伊藤友美が24本ものアダルトビデオに出演していたとして所属事務所マウントプロモーション社長、メーカー4社の社長、監督が逮捕された。続く8月10日、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件宮崎勤が逮捕され、大量のアダルトビデオを所持していたとされる報道がなされたため[18]、アダルトビデオに対する本格的な抑圧が開始されるかに思われた[19]。しかし、行政の政策は宮崎が実際に大量に所持していたホラービデオとロリコンビデオ[20]の対策や未成年が自由に購入できる状況にあった自動ポルノ販売機の規制に終始し、アダルトビデオ業界そのものが規制対象となることはほとんどなかった[19]

1989年4月に発売された女性週刊誌『an・an』において、「セックスで、きれいになる」とコピーが打たれたセックス特集が組まれ、女性の性に対する意識変化が試みられるようになると、アダルトビデオ業界にも林由美香樹まり子といった自主的に「本番出演」を選択する女優が次々と登場し始めた。また、早見瞳の『今度は本番! 早見瞳』のような一旦引退したソフトポルノ女優の本番路線への転向とカムバックがブームとなり、人気を博した。


  1. ^ a b 藤木p.16
  2. ^ 藤木p.46
  3. ^ a b c 中村
  4. ^ 本橋
  5. ^ a b c 藤木p.95-97
  6. ^ 東良
  7. ^ 藤木p.110
  8. ^ GORO
  9. ^ 藤木p.115
  10. ^ 藤木p.121
  11. ^ 藤木p.120
  12. ^ 高杉
  13. ^ 藤木p.134
  14. ^ 小野
  15. ^ a b 藤木p.141
  16. ^ 藤木p.153
  17. ^ 藤木p.161
  18. ^ 宮崎が大量のアダルトビデオを所持していたとされる件に関して、漫画家とり・みきは『月刊ニュータイプ1989年11月号』において、取材記者の手により雑誌の位置を動かす等の演出があった事を指摘している。
  19. ^ a b 藤木p.168
  20. ^ 日本映像倫理審査機構
  21. ^ 藤木p.187
  22. ^ a b 藤木p.194
  23. ^ 森p.168
  24. ^ a b 藤木p.196
  25. ^ 藤木p.208


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