もう一つの背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 12:19 UTC 版)
死体裁判は、そこに政治的な動機があったとされることが多い。フォルモススは、892年に神聖ローマ帝国の共同統治者となったランベルトに戴冠を行っている。一方でランベルトの父、グイード3世にかつて戴冠をおこなったのはヨハネス8世であった。野心的なグイードに神経質になっていたと思しきフォルモススは、カロリング朝のアルヌルフをけしかけ、イタリアを侵略させるとともに彼に皇帝の冠を授けようとした。アルヌルフの侵攻は失敗に終わったが、グイードはその後まもなくして亡くなった。しかしフォルモススが895年にもアルヌルフをローマに招聘したため、アルヌルフは翌896年の早々にアルプス山脈を越えてローマに入り、フォルモススから神聖ローマ皇帝として戴冠を受けた。その後フランクの軍勢は町を去り、アルヌルフとフォルモススはどちらも896年に亡くなった。その後を継いだボニファティウス6世も、その2週間後に没した。ランベルトとその母アジェルトゥルデがステファヌス7世が法王となったころにローマを訪れているが、死体裁判がおこなわれたのはその直後である897年の初頭である。 一連の出来事について20世紀まで支配的だったのは素直な解釈であった。フォルモススはいつもカロリング朝びいきであり、ランベルトへの戴冠はグイードに強要されたものであった。アルヌルフが亡くなり、ローマにカロリング朝の君主がいなくなった後で、ランベルトがローマにやってきてステファヌス7世に死体裁判を開くよう迫った。これは、皇帝の冠が自分のものであることをあらためて確認するとともに、フォルモススへ(死後ではあるが)復讐を遂げようとした、というのが従来の見方である。 しかし1932年にジョセフ・ドゥーアが新たな見方を提出したことで、これまでの説はほとんど顧みられなくなった。ドゥーアが注目するのは、ヨハネ9世が招集した898年のラヴェンナ公会議にランベルトが出席していたことである。つまり、死体裁判で出された決定が取り消される場に立ち会っていたのだ。公会議の活字化された記録によれば、ランベルトはそれに積極的に賛成していた。もしランベルトとアジェルトゥルデがフォルモススの名誉の剥奪を目論んでいたのならば、とドゥーアは問う。「なぜヨハネス9世は、皇帝〔つまりランベルト〕と司教たちが承認するような、いまわしい死体裁判を糾弾するカノンを提出できたのだろうか?どうしてヨハネス9世はこの問題をあえて切りだしたのだろうか、〔...〕犯人たちの前で、皇帝の関与についてほんのさりげなく言及することさえしないままで?」。この説は、別の学者にも受け入れられている。ジローラモ・アルナルディも、フォルモススはただ親カロリング朝の態度をとっていたわけではなく、895年まではランベルトとも良好な関係を保っていたと述べている。両者の関係がこじれるのは、ランベルトのいとこであるグイード4世がベネヴェントに進軍し、東ローマ軍を駆逐してからである。フォルモススはこの攻撃にあわてふためき、アヌルフの助けを求めてバヴァリアに密使を送った。アルナルディは、897年1月にランベルトとアジェルトゥルデを伴ってローマ入りした人物こそがグイード4世であり、彼の存在が死体会議を触発したのだと論じている。
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