ことの起こり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 18:59 UTC 版)
慶應3年 (1867) 夏、折から大坂に来演中の二代目中村福助が、数え29歳で急死した。ただでさえ客足が遠退きがちな暑い夏の盛り、二代目福助の人気を頼みの綱にしていた興行主は、あてが外れて弱ってしまった。そこで窮余の策で白羽の矢を立てたのが、二代目福助の門人・四代目三桝他人(みます たにん)という役者だった。 四代目他人は大坂出身の役者で、当時は五代目三桝大五郎の養子となっていた。来坂した二代目福助はこの四代目他人の素質を認め、あらためて自らの門人としたうえで側に置くようになっていた。門人といっても福助より2歳ほど年下なだけで、しかもその芸はなかなかしっかりしていかにも堂に入った様子だった。そこでこの興行主は四代目他人を口説き落しにかかる。亡き二代目福助はあなたに一目置いていた、次の福助を襲名するのはあなたを置いて他にはいないではないか、と持ち上げて、とうとう彼をその気にさせてしまったのである。 ところが東京には、留守居に残してきた二代目福助の高弟・二代目中村政次郎(なかむら まさじろう)がいた。この「中村政次郎」という名跡は、二代目福助の前名だった由緒ある名跡である。師匠の前名を頂くぐらいだから、衆目が一致する高弟には違いなかった。大坂の動きなどは知ろうはずもない政次郎は、師匠の法要がひとまず済むとこちらも三代目福助を襲名する準備にとりかかっていたのである。翌慶應4年(明治元年)、この両者はほぼ同時期に東京と大坂でそれぞれ三代目中村福助を襲名する。こうして東西の舞台には二人の中村福助があい並び立つことになった。 旅先で看板役者が客死する。するとその役者に従っていた門弟と、留守を預かっていた兄弟子の双方が、故き師匠の名跡を共に襲名してしまう。実は江戸時代にはこのような事態がしばしば起こった。しかしほとんどの場合は後になって、先に死去した方を次代、長生きした方を次次代とし、双方ともその名跡の代々に加えることが多かった。わだかまりが後々まで尾を引かないように工夫したのである。 ところがこの「中村福助」に限っては話がこじれにこじれ、その結果以後100年間にわたってこの名跡を名乗る役者が東京で6代、大阪では3代、それぞれ続くという状態が続いたのである。 こうして東京と大阪にそれぞれ同じ名で、しかも代数まで同じ(三・四・五代目)中村福助が並び立つようになると、世間ではそれぞれの福助に各々の屋号を冠して、東京の福助は成駒屋中村福助(なりこまや なかむら ふくすけ)、大阪の福助は高砂屋中村福助(たかさごや なかむら ふくすけ)と呼んで区別するようになった。しかし当の本人たちは当然のことながら、自らが正真正銘の「中村福助」であるといって譲らなかったのである。
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