『良寛道人遺稿』出版に尽力(慶応元年?~慶応3年3月 68?~70歳)
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「貞心尼」の記事における「『良寛道人遺稿』出版に尽力(慶応元年?~慶応3年3月 68?~70歳)」の解説
加藤僖一は、こう述べている。 『良寛道人遺稿』は、慶応3年、わが国で最初に刊行された良寛の詩集である。しかも唯一の木版本であり、資料としても書物としても、非常に貴重性が高い。編者の蔵雲和尚は、上州前橋・竜海院の第29世の住職。明治2年没。本書の巻頭に掲げられた良寛の肖像も、良寛の弟子、貞心尼や遍澄の下絵を参考にして、蔵雲和尚が書いたものである。(相馬御風著『良寛百考』、渡辺秀英校註『大愚良寛』による)」、「蔵雲和尚は弘化4年、越後へ巡錫してき、その後一時、柏崎在吉井の善法寺にすんでいたことがある。良寛和尚の遺稿を見て感銘をうけ、五合庵を訪ねたり、貞心尼とも会い、良寛詩集を思い立ったようである。」、「良寛の肖像が、口絵一頁に描かれている。この肖像は前にもふれたように、貞心尼が原画を書き、蔵雲和尚が仕上げたといわれている。まだ写真などなかった時代であるから、この絵が、最もよく良寛の風貌をとらえた貴重な資料といえよう。右肩には「良寛道人肖像」と篆書で書かれている。この肖像のウラは白で、次に「良寛道人略伝」が、四頁にわたって掲載されている。文はやはり蔵雲和尚。書は碧山星嶂という人の手になる隷書体。なかなか装飾性に富むきれいな隷書である。良寛略伝を手際よくまとめ、かつ、貞心尼から、しばしば助言をうけたことを書きとどめている。 — 加藤僖一 、『良寛道人遺稿 全』1982, pp. 140~142 加藤僖一は、『良寛道人遺稿 全』の解説に、こう述べている。 大島花束氏の『良寛全集』には、貞心尼が蔵雲和尚宛に出した手紙が収録されている。その一部に「詩集一冊、序文二通り、是は島崎へん澄と申す法師、年頃禅師と親しく致しし人にて、此度開版の事につき、わざわざ私方へ持参致され候まま、差上げ御目にかけ参らせ候。時は同じことに候へど、所々文じのあやまりあるを、学者の改め直したりとの事に候。序文も俗人の作にてさのみ取るべき所もなきやうに候へど、御慰の為め、御覧に入れ参らせ候。便の御かへし被下度候。」とあり、右の詩集のほかに、遍澄が書き集めた詩集をも参考にしていることがわかる。またここにふれられている序文は、鈴木文台あたりの手になるものをさすと思われるが、俗人の作とばかり、手きびしいきめつけ方をしている。 — 加藤僖一 、『良寛道人遺稿 全』1982, p. 141 相馬御風は、こう擁護している。 貞心尼が良寛和尚の詩集の開板者である上州前橋龍海院の蔵雲和尚に宛てた手紙の中に、学者某が良寛和尚の詩を集めたのはいいが、それに文字の誤りがあるといって所々改め直したのはけしからぬ、又序文の如きも俗人又は真に良寛その人を解しない者の書いたのは無きに劣るというような事をいっている。そうした点では、貞心尼もなかなか一家の見識を高持していたらしい。世間並の尼さんでなかったことは、こんな事からだけでも想像出来る。 — 相馬御風 、「貞心尼雜考」『貞心と千代と蓮月』1930, p. 54 慶応三年貞心尼七〇歳の三月、上州前橋の竜海院主蔵雲和尚が、良寛の詩一八二首、法華讃五二首を収めた『良寛道人遺稿』(良寛漢詩集の最初の刊行)を江戸で出版したが、書中良寛道人略伝に、「又屡(しばしば)其の参徒貞心尼なる者に就いて、師の履践(りせん)風彩を詳(つまびらか)にす」(原詩漢文)と断っている通り、良寛の閲歴、とくに巻頭画像については貞心尼によるところが大きかった。画像は世に残された良寛像のうちもっとも真に迫るといわれ、原画は貞心尼の手によるものとされているが、かつて雪堂によって描かれた師像への記憶によるところが大きいものとされている。 — 小出町教育委員会 、『小出町史 上巻』1996, pp. 1014-1015
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