『源氏物語』の揚名介
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この「揚名介」という語は『源氏物語』の「夕顔」の巻に「揚名介なる人の家」という形で1ヶ所だけ現れるが、『源氏物語』が古典・聖典となった鎌倉・室町期には揚名介の意味が分からなくなっていたらしく、『源氏物語』の古注釈書などで「源氏第一の難義」あるいは「源氏物語三ケの大事の一なり」等と呼んでとして秘伝扱いされていた。 院政時代の世尊寺伊行でもすでに本来の意味が分からなくなっていたらしく、『源氏釈』において「揚名介とは諸国の介なり、源氏の人のなるなり」と誤った説明を加えている。鎌倉時代に入って藤原定家は『奥入』において「此の事源氏第一の難義なり、末代の人勘へ知るべき事に非ざるか」と意味が分からなくなっていることを正直に表明している。南北朝時代の四辻善成になると『河海抄』において「当流両家深奥の説、殊なる秘事となるに依りて口伝にあり」と秘説化しており記録を残さず口伝で伝えるようになっている。その後の中院通勝による『岷江入楚』では、「源氏物語三ケの大事の一なり、(中略)河海に載せたる事、皆誤れり、別に是を記すべし」として一般に見せる注釈書には掲載せず、別に存在する秘伝書のようなものの中に記しておいたことを述べている。 一条兼良になると1477年に著した『源語秘訣』(注解書『花鳥余情』で保留した15の論点を説明した秘伝書)の中で、「清慎公記云。康保4年7月22日。揚名関白早可被停止之者也。今案、揚名の二字は諸国の介に限べからず。故に揚名関白と清慎公はのたまへり。又揚名掾揚名目ともいへり」と正しい説明を加えている。
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