『三国史記』の編纂とは? わかりやすく解説

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『三国史記』の編纂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 06:48 UTC 版)

金富軾」の記事における「『三国史記』の編纂」の解説

1142年官職辞任し、勅を奉じて正史である『三国史記』の編纂を行った。その詳細な時期は、『三国史記』の地理志の地名表記(「古の○○は今の△△である」といった記述)の詳細な検討から、遅くとも1143年には編纂始まっていること、また、高麗史仁宗世家23年条や同書金富軾伝で、1145年12月には撰上されたことが確認される当時すでに勅撰の『旧三国史』が存在したことが李奎報の「東明王篇」などでも知られるが、重撰となる正史編纂がなぜ必要とされたのかということについては、未だ定説至っていない。例えば「『旧三国史』が本紀と列伝だけで志・表を備えておらず、正史体裁欠いていたから」とするもの、「門閥貴族間での新羅系の優位性確立するために、あえて新羅中心的な史書残そうとして撰集した」というものなどがある。 『三国史記』の編纂姿勢からの金富軾への批判としては 中国中心的に過ぎる。中国史書利用多く場合によっては無批判採用見られる儒教的立場強調しすぎる。『三国遺事』比べて、古い記述儒教的観点から切り捨て過ぎている。 高麗における自己新羅門閥である金富軾自身)の立場優位にようとする造作がある。 という3点要約されることが多い。朝鮮側原史料の保存状況や、当時東アジア学問中心中国にあったこと、高麗中国との関係からみて、やむをえない面もあると言える

※この「『三国史記』の編纂」の解説は、「金富軾」の解説の一部です。
「『三国史記』の編纂」を含む「金富軾」の記事については、「金富軾」の概要を参照ください。

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