『三国史記』の編纂
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1142年に官職を辞任し、勅を奉じて正史である『三国史記』の編纂を行った。その詳細な時期は、『三国史記』の地理志の地名表記(「古の○○は今の△△である」といった記述)の詳細な検討から、遅くとも1143年には編纂が始まっていること、また、『高麗史』仁宗世家23年条や同書の金富軾伝で、1145年12月には撰上されたことが確認される。当時すでに勅撰の『旧三国史』が存在したことが李奎報の「東明王篇」などでも知られるが、重撰となる正史の編纂がなぜ必要とされたのかということについては、未だ定説に至っていない。例えば「『旧三国史』が本紀と列伝だけで志・表を備えておらず、正史の体裁を欠いていたから」とするもの、「門閥貴族間での新羅系の優位性を確立するために、あえて新羅中心的な史書を残そうとして撰集した」というものなどがある。 『三国史記』の編纂姿勢からの金富軾への批判としては 中国中心的に過ぎる。中国史書の利用が多く、場合によっては無批判な採用が見られる。 儒教的立場を強調しすぎる。『三国遺事』と比べて、古い記述を儒教的観点から切り捨て過ぎている。 高麗における自己(新羅系門閥である金富軾自身)の立場を優位にしようとする造作がある。 という3点に要約されることが多い。朝鮮側の原史料の保存状況や、当時の東アジアの学問の中心が中国にあったこと、高麗と中国との関係からみて、やむをえない面もあると言える。
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