「金春流の大久保彦左衛門」とは? わかりやすく解説

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「金春流の大久保彦左衛門」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 10:06 UTC 版)

櫻間伴馬」の記事における「「金春流の大久保彦左衛門」」の解説

当時能楽界には漸く復興兆し見え始めていたが、伴馬の属す金春流一向にふるわない有様であり、伴馬は東京金春流代表する立場となった上京翌年である1880年明治13年)、伴馬は細川護久とともに当時奈良在住していた元金大夫金春広成の元を訪ね、その上京の契機作った。なお、『能と金春』368頁では、広成が東京の護久邸を訪ねたとある。伴馬が広成と舞った二人静」は、「シテ上を見るツレは下を指している」という具合で、これほど揃わないのも珍しいというような相舞であったが、14喜多六平太をして「まづあれくらゐ面白二人静も、前後になかつた」と感嘆せしめるものであった。 広成が1896年明治29年)に死去した後は、息子金春八郎宗家を嗣ぎ、伴馬がその指導当たったものの、金春宗家比して「細い」と評せられた伴馬の芸風との相違もあってか、十分に稽古を受けることがないまま、酒毒のため1906年明治39年)で没した76世家となった金春広運奈良拠点活動したが、青年期同じく中村平蔵師事していたということもあって伴馬への信頼厚く当時伴馬は「流儀大久保彦左衛門」と呼ばれたという。広運次男・栄治郎(のち77世家元)は、東京森山茂元に預けられ、伴馬の元に通って稽古受けた1909年明治42年)には、能楽奨励案を帝国議会提出するに当たり、各流の家元とともに金春流代表者としてその名を連ねた宗家に対しては、伴馬は芸の上では厳しく指導したが、あくまで師家として敬意払い決しないがしろにすることはなかった。

※この「「金春流の大久保彦左衛門」」の解説は、「櫻間伴馬」の解説の一部です。
「「金春流の大久保彦左衛門」」を含む「櫻間伴馬」の記事については、「櫻間伴馬」の概要を参照ください。

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