「金春流の大久保彦左衛門」
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「櫻間伴馬」の記事における「「金春流の大久保彦左衛門」」の解説
当時、能楽界には漸く復興の兆しが見え始めていたが、伴馬の属する金春流は一向にふるわない有様であり、伴馬は東京の金春流を代表する立場となった。 上京の翌年である1880年(明治13年)、伴馬は細川護久とともに、当時奈良に在住していた元金春大夫・金春広成の元を訪ね、その上京の契機を作った。なお、『能と金春』368頁では、広成が東京の護久邸を訪ねたとある。伴馬が広成と舞った「二人静」は、「シテが上を見るとツレは下を指している」という具合で、これほど揃わないのも珍しいというような相舞であったが、14世喜多六平太をして「まづあれくらゐ面白い二人静も、前後になかつた」と感嘆させしめるものであった。 広成が1896年(明治29年)に死去した後は、息子の金春八郎が宗家を嗣ぎ、伴馬がその指導に当たったものの、金春宗家に比して「細い」と評せられた伴馬の芸風との相違もあってか、十分に稽古を受けることがないまま、酒毒のため1906年(明治39年)で没した。 76世家元となった金春広運は奈良を拠点に活動したが、青年期に同じく中村平蔵に師事していたということもあって伴馬への信頼は厚く、当時伴馬は「流儀の大久保彦左衛門」と呼ばれたという。広運の次男・栄治郎(のち77世家元)は、東京の森山茂の元に預けられ、伴馬の元に通って稽古を受けた。 1909年(明治42年)には、能楽奨励案を帝国議会に提出するに当たり、各流の家元とともに、金春流の代表者としてその名を連ねた。 宗家に対しては、伴馬は芸の上では厳しく指導したが、あくまで師家として敬意を払い、決してないがしろにすることはなかった。
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