「悲劇の横綱」現役引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:20 UTC 版)
「吉葉山潤之輔」の記事における「「悲劇の横綱」現役引退」の解説
新横綱だった1954年3月場所は、急性腎臓炎・糖尿病により初日から全休となる。その後も左右両足の捻挫、銃弾貫通による後遺症と足首に残ったままの銃弾の影響で思うように白星を稼げず、横綱時代では一度も賜杯を抱くことが出来ず、「悲劇の横綱」とも言われた。横綱在位3場所目で2回以上の休場は昭和以降3人目という不名誉記録も作っている。それでも、市川右太衛門に勝るとも劣らない美男力士として人気が高く、従軍・戦傷の経験から元軍人や傷痍軍人からも人気があった。さらに、筋骨隆々たる巨体が見せる不知火型の土俵入りは非常に美しく、左四つが得意だったが力任せの取り口が目立ち、蹴手繰りの奇手を見せることも多かった。 若い頃から出世を争い、横綱昇進も非常に近かった鏡里喜代治との対戦は、美しさなら往年の梅ヶ谷藤太郎 (2代)・常陸山谷右エ門の対戦と対比され、特に人気を呼んだ。1958年1月場所、絶不調の吉葉山は中日を終えて3勝5敗となり、そのまま現役引退を表明した。なお、同年1月場所で5勝3敗だった鏡里は「10番勝てなかったら辞める」と発言、千秋楽を終えて9勝6敗だったため、偶然にも2人の引退場所が重なった。
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