鎌原重春 鎌原重春の概要

鎌原重春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 17:47 UTC 版)

 
鎌原 重春
時代 安土桃山時代
生誕 永禄元年(1558年)[1]
死没 慶長11年(1606年)5月16日[1]
戒名 常林院殿三叟浄寅居士[1]、義光院殿[1]
官位 宮内少輔[2]
主君 武田勝頼真田昌幸真田信之
氏族 滋野氏・鎌原氏
父母 父:鎌原重澄
正室:真田昌幸の娘(真田信尹の娘で昌幸の養女)[2]
鎌原重宗
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生涯

真田幸隆(幸綱)の弟である鎌原幸定の曾孫に当たる。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで、武田氏に従っていた父の重澄が戦死したため、18歳で家督を継ぎ、父と同じく「宮内少輔」を名乗った[2][1]。天正10年(1582年)3月の武田征伐武田氏が滅亡すると、まず滝川一益に従ったが、本能寺の変の後に真田家に仕えた[2]真田昌幸の一族衆として吾妻郡経営に協力し、昌幸は弟の信尹の娘を養女とし、重春に嫁がせている[2][3]

秀吉の沼田領裁定の後は、父の時代からの縁である岩櫃城を護っていたが、慶長11年(1606年)に死去し、家督は子の重宗が継いだ[4]。法号は常林院殿三叟浄寅居士(鎌原城跡鎌原一族墓碑銘)[1]義光院殿(鎌原過去帳)[1]

重春の夫人は元和5年8月1日1619年9月8日)に死去している[3][1]

子孫も代々の真田氏に仕えながら婚姻関係を重ね、沼田から松代に転封された頃からは重臣として扱われている。重春の玄孫の重昌は、真田信政の娘である陽明院殿の名跡を嗣いで真田苗字となり、以降は真田図書の家となって続くことになる[2][1]

参考文献

関連項目


  1. ^ a b c d e f g h i j 丸山 2016, pp. 137–141.
  2. ^ a b c d e f 柴辻 1996, p. 11.
  3. ^ a b 柴辻 1996, p. 81.
  4. ^ 丸山 2016, p. p137-141.


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