趙俶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:07 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動生涯
1335年(至元元年)、進士に及第した。1373年(洪武6年)、召し出されて国子博士に任じられた。洪武帝は奉天殿に趙俶や国子助教の銭宰・貝瓊らを召し出して、国子監では孔子の定めた経書を教育するよう統一し、蘇秦や張儀のような縦横家の説を混ぜないように命じた。趙俶は十三経を定めて天下に頒布し、『戦国策』や陰陽讖緯の諸書を隠して学宮に陳列しないよう求めた。1374年(洪武7年)、洪武帝は諸生のうち優秀な者35人を選抜し、趙俶に命じてかれらを統括させ、古典籍を教えさせることにした。ほどなく李拡・黄義らが抜擢されて文華殿・武英殿の二堂に入って書を解説した。1376年(洪武9年)、趙俶は引退を願い出て、翰林院待制として致仕した。享年は81。
参考文献
- 『明史』巻137 列伝第25
- 1 趙俶とは
- 2 趙俶の概要
- 趙俶のページへのリンク