趙倶とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 趙倶の意味・解説 

趙倶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/13 08:08 UTC 版)

Jump to navigation Jump to search

趙 倶(ちょう ぐ、生年不詳 - 355年)は、五胡十六国時代前秦の人物。南安郡出身[1]酋長

生涯

時期は不明だが、羌族を束ねて氐族酋長の苻洪に帰順した。

350年1月、苻洪が大都督大将軍大単于・三秦王を自称すると、趙倶は従事中郎に任じられた。3月、苻洪が亡くなると子の苻健が後を継いだ。8月、趙倶は光禄大夫河内郡太守に任じられ、温県を守った。

354年5月、洛陽刺史に任じられ、宜陽を鎮守した。

355年6月、苻健が没すると、子の苻生が後を継いだ。9月、苻生は暴君であり、梁皇后・毛貴・梁楞・梁安らを天文を理由に処刑した。趙倶の従弟である右僕射趙韶・中護軍趙誨は苻生より寵愛を受けていたので、趙倶もまた尚書令に任じられたが、病を理由に固辞した。やがて、趙倶は趙韶らへ「汝らは先祖代々を顧みず、滅門の事(族誅)を為さんとしているのだぞ!毛・梁(梁皇后・毛貴・梁楞・梁安)には一体何の罪があって処刑されたというのか。我に何の功績があって彼らに代わる事が出来ようか。汝らも同じ目に遭う事になり、我も死ぬであろう!」と言い放ち、憂いの余り亡くなった。

参考文献

脚注

  1. ^ 天水郡出身とも



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「趙倶」の関連用語

趙倶のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



趙倶のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの趙倶 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS