蘇轍 蘇轍の概要

蘇轍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 02:35 UTC 版)

蘇轍・『晩笑堂竹荘畫傳』より

略伝

眉州眉山県(現在の四川省眉山市東坡区)の出身。嘉祐2年(1057年)、19歳の時に兄とともに進士に及第し、商州軍事推官となるが父の蘇洵を首都で養うこととし、兄の蘇軾が任地(鳳翔府)から帰ってきてはじめて大名府推官となる。神宗の時に三司條例司の属官となったが、王安石の青苗法に反対して河南推官に転出させられ、斉州掌書記をへて著作佐郎となる。いわゆる「烏台の詩案」で兄の蘇軾が罪を得たときに連座して、監筠州塩酒税・績渓知県に落とされる(新法・旧法の争い)。

哲宗が即位して召されて秘書省校書郎となり、右司諫・起居郎・中書舎人・戸部侍郎と累進し、翰林学士となり権吏部尚書・御史中丞・尚書右丞をへて門下侍郎まで昇進した。しばしば上書直言したが、帝の意にかなわず汝州知州に左遷される。袁州知州とされたが赴任先に着く前に朝議大夫に落とされ、南京をへて筠州に到る。化州別駕・雷州循州徽宗に代が替わっても永州岳州と地方回りをさせられていたが、大中大夫に復帰させられ、提挙鳳翔上清・太平宮として許州に移った。

崇寧年間(1102年 - 1106年)に官を辞し、許州に室を築き、潁浜遺老と称し交友を絶ち、終日黙座して経史諸子を研究すること十年にして74歳で没する。端明殿学士を追贈され、南宋淳熙年間に文定とされる。

著作

蘇轍の詩は兄の蘇軾にはおよばないが鷹揚淡泊にして、沈静簡潔な人柄をあらわすと評される。また書を能くした。

著作として、『集』50巻・『後集』24巻・『三集』10巻・『應詔集』12巻・『詩集傳』20巻・『春秋集解』12巻・『論語拾遺』1巻・『孟子解』1巻・『古史』60巻・『龍川略志』10巻・『別志』8巻・『道徳経解』2巻などがある。

また、兄の蘇軾を慕っており、人生において兄に関わる作品を残してきた。その中でも、兄が亡くなり遺骸を葬る際に、長文の墓誌銘「亡兄子瞻端明墓誌銘」を書いている[3]


  1. ^ 宋・孫汝德編『蘇潁濱年表』:「仁宗寶元二年己卯二月丁亥蘇轍生。」
  2. ^ 宋・孫汝德編『蘇潁濱年表』:「(政和二年)十月三日轍卒、年七十四。」
  3. ^ 宋史』蘇軾伝に記載されている。


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