自由民主党 (日本) 党名

自由民主党 (日本)

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党名

党名は1955年(昭和30年)11月、党結成に際して発足された「新党結成準備会」の「党名委員会」によって広く党内外から公募された。全国から 2,191通もの応募があり、多かった案から順に「日本保守党」が546通、「民主自由党」と「保守党」が同数で187通、「日本国民党」が159通であった[68]。最多となった「日本保守党」については「これでは選挙に不利だ[69]」などの意見が噴出し採用されず、党内で討議された結果、自由民主主義を最も端的に象徴する「自由民主党」が党名となった。

菅直人と鳩山由紀夫が結党した旧民主党や小沢一郎の創立した自由党が登場した後は、略称の「自民党」または「自民」を使う頻度が増えていくようになった。機関紙もそれまでの『自由新報』から『自由民主』に改題した[50]

2009年(平成21年)の衆議院議員選挙民主党鳩山由紀夫代表)への政権交代が起き、1993年(平成5年)以来16年ぶりに野党となった2009年(平成21年)同年9月谷垣禎一総裁の下での党の政権構想会議で「自由民主党」に「世論の拒否反応がある」との理由で党名変更が検討された[70]。「和魂党」「自由新党」などの新党名が提案されたが、批判が相次いだため、党名は変更されなかった[71][72]

党史

保守合同による結党と55年体制成立

1955年(昭和30年)の日本民主党と自由党の保守合同による自由民主党結成大会。場所は旧中央大学講堂

戦後日本の政党政治は占領下での選挙から始まり、当初は極めて多くの政党が誕生した[73]。初めて女性参政権が導入されて行われた1946年(昭和21年)4月10日戦後第一回目の総選挙では、13の全国政党を含めて363にのぼった[74]。保守政党は、戦前日本の二大政党制を築いた立憲政友会立憲民政党の系譜を踏襲する複数の政党として再建されていたが、保守合同が幾度も模索されながらも実現に至っていなかった[3]

1955年(昭和30年)11月15日の午後1時20分から、東京都神田中央大学講堂(当時)にて自由民主党の結党大会が開かれた[3]。衆参両院議員・地方代表・一般招待者の約1500人が出席した[3]。大会は前日の首脳六者会談で整えられたお膳立て[注釈 9]通りに進行し、党規党則綱領政策活動大綱・党役員が満場一致で可決・承認された[75]。こうして衆議院299人、参議院118人の勢力を擁する近代政治史上初の単一保守政党が成立した[76]。同年10月13日に先立って開かれた日本社会党統一大会において、4年間左派右派に分裂していた社会党が再統一したことに危機感を覚えた財界の圧力もあって吉田茂鳩山一郎の抗争は終焉し、保守合同が実現した[77]。自民党は結党当時から与党として存在し[78]、それ以降も1993年の衆議院選挙で過半数を割るまでの38年間単独で政権を担当することになる[79](例外として、自民党から分党した新自由クラブと1983年に連立を形成している[80])。

結党から最初の総選挙となった1958年(昭和33年)の第28回総選挙で、自民党は追加公認を併せ298議席を獲得(定数467)。社会党は同じく167議席で、両党で議席の99%以上を占めた[注釈 10]。こうして自民優位の二大政党制である、55年体制が成立した[注釈 11]

なお、結成直前の1954年(昭和29年)から結成後9年経った1964年(昭和39年)まで、アメリカ合衆国(以下米国、具体的にはホワイトハウスおよびアメリカ国務省)の反共主義政策に基づいて中央情報局(CIA)の支援を受けていたことが後年明らかになった[81][82][83]。CIAは、日本に社会党政権が誕生するのを防ぐことを目的に自民党と民社党に資金援助を行い、さらに選挙活動に向けたアドバイスを行っていた[83]。現在米国政府はこの事実を認めているが、他方で自民党はこれを否定している[83]

高度経済成長と党安定期

1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)に渡って、第2次岸内閣のもとで繰り広げられた安保闘争によって政治運動が盛り上がり、与党への同情から安保闘争から間もない1960年(昭和35年)の第29回総選挙では社会党と民社党の分裂の間隙を縫って議席を増やした。そして、「所得倍増計画」が策定されて日本は高度経済成長を遂げ、政治運動は影を潜めるようになった。また、池田内閣は国会運営面で「話し合いの政治」の方針を掲げて野党との融和を図り、政局が安定していくようになった。

1963年(昭和38年)10月に党組織調査会会長であった三木武夫が党近代化に関する答申(いわゆる三木答申)を取りまとめた。派閥の弊害について述べており、派閥の解消や政治資金を党に集中化させる答申であったが、総裁の池田は「三木答申なんぞはクソくらえだ。あんなもの何の意味もない[84]」とオフレコで述べるなど各派閥にとって受け入れがたい内容であった。ただ、派閥は形だけではあるが一旦すべて解散した[85]

1964年(昭和39年)、池田は病気に伴い総理総裁の辞任を表明し、後継者に佐藤栄作を指名した。同年には大野伴睦が死去しており、翌1965年(昭和40年)7月には河野一郎が死去、病気療養していた池田も同年8月に死去、と相次いで佐藤のライバルであった党内実力者が減ることとなった。1966年(昭和41年)には黒い霧事件と呼ばれる不祥事が続出した為に自民党は批判にさらされ、1967年(昭和42年)の第31回総選挙では不利が予想されたが新左翼への反発から安定多数を確保した。佐藤内閣は「人事の佐藤[86]」と呼ばれた佐藤が自民党内を巧みに掌握し、総裁四選を果たす中、日韓基本条約の成立、公害対策の実施、沖縄返還などの政策を実現して1972年(昭和47年)7月まで7年8か月の長期政権を維持することとなった。

1960年代から、岸信介を中心に反共産主義の運動を通じて、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)との関係を深めていった。

結党から1960年代の終わりまでの時期、自民党は毎回候補者を減らし、得票率も少しずつ減少させる守りの選挙だったものの全体として安定期だった。一方、新住民層が多い大都市やそのベッドタウンでは比較的弱く、左派・革新系の社会党日本共産党と票の奪い合いが続いていた。しかし、社会党は離党者による民社党の結成や公明党・日本共産党の台頭で都市部の地盤を失い、それに比べると自民党は比較的地盤を守った。

保革伯仲と党内抗争

佐藤長期政権後に行われた1972年(昭和47年)の総裁選では党の実力者で、いわゆる三角大福と呼ばれた三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫の四人が立候補し、日本列島改造論日中国交正常化を掲げた田中が総理総裁に就任した。田中内閣は成立早々の1972年(昭和47年)9月には日中共同声明を発表した。この動きに対して、1973年(昭和48年)7月には派閥横断でタカ派の政策集団である青嵐会が結成され、青嵐会は日中国交正常化反対の立場を取って活動した。

田中内閣は日本列島改造論を基礎とした、高速道路建設や新幹線整備など公共事業費を増額した1973年度予算を編成した。しかし、同年10月にはオイルショック(第一次石油危機)が起こり、のちに狂乱物価と呼ばれたインフレーションが発生して日本経済は混乱状態に陥った。田中は同年11月にはライバルで均衡財政志向であった福田を蔵相に任命して対応に当たらせた。福田は予算の圧縮、金融引締めなどを本格的に行うようになり、田中内閣は需要喚起政策から需要抑制策政策へと政策転換をしていくようになった。1974年(昭和49年)には、日本は戦後初めて経済成長率がマイナスとなった[87]。1975年(昭和50年)には経済成長率はプラスとなったものの、この頃を境に、日本は高度経済成長時代から安定成長時代に移行していくようになった。

1974年(昭和49年)7月の第10回参院選では過半数の議席を維持したものの、与野党の議席数の差がわずかとなり、「保革伯仲(伯仲国会)」と呼ばれる時代となった[88]。同年12月には田中金脈問題で田中は総理総裁を辞任した。田中の後継総裁選は行われず、自由民主党副総裁の椎名悦三郎による指名(いわゆる椎名裁定)と両院議員総会の承認により三木武夫が総理総裁に就任した。三木は党の近代化や政治浄化、不況の克服を掲げた。

1976年(昭和51年)2月にはロッキード事件が発覚した。同年6月には党所属の河野洋平山口敏夫ら6人の国会議員が離党し、「腐敗との決別」をキャッチフレーズとした新自由クラブを結成した。同年7月には東京地検特捜部が田中角栄を逮捕し、田中は自民党を離党した。総理大臣経験者の逮捕は党内外に衝撃を与えた。同年8月には田中は受託収賄罪外為法違反容疑で起訴された。三木や法務大臣の稲葉修はロッキード事件解明に積極的な立場を取ったが党内は反発し、三木おろしの動きが強まった。党内の動きに対して三木は対抗し、反発する閣僚を罷免して衆議院を解散する構えを見せたが結局、任期満了まで解散しなかった。同年12月に行われた第34回総選挙で自民党は結党以来初めて過半数割れとなった。三木は選挙の責任を取り総理総裁を辞任した。なお、田中は離党しながらも最大派閥のオーナーとして強い影響力を保持していた[89]

1976年(昭和51年)12月に福田赳夫が執行部による推挙と両院議員総会の承認により総理総裁に就任した。この際には福田が先に総理総裁を一期だけ務めた後、大平に交代することを示唆した大福密約があったとされる[90]福田内閣は当初、内閣支持率は低かった[90] が、景気回復や外交で成果を上げていくようになった。また、伯仲国会という状況下ではあったが執行部が野党の一部に対して部分連合を呼びかけるなど協調的でもあり、それほど問題とならなかった。なお、自民党は1977年(昭和52年)に党員、党友参加による総裁選の導入を決めた。また、党友組織の自由国民会議も結成した。さらに派閥解消が唱えられ、各派閥は形だけではあるが解散した[91]

自民党と統一教会系の国際勝共連合との協力関係は、1978年当時の福田赳夫内閣総理大臣が参議院予算委員会で公式に認めている。勝共連合から自民党へ多額の政治献金がなされていたこと、勝共連合からの借入金の存在が当時の自治省の資料より確認できる[92]1980年代に世界基督教統一神霊協会の霊感商法社会問題になったが、教団による選挙支援と議員による教団への賛同などの形で、 党と教団の関係は保たれていった[93]

1978年(昭和53年)の自民党総裁予備選挙に福田は大福密約を無視して立候補するも、田中派の支持に支えられた大平が勝利し、福田は本選進出を辞退し、大平が総理総裁に就任した。大平は、1979年(昭和54年)10月の第35回総選挙一般消費税の導入を公約として掲げたが自民党は前回の衆議院議員総選挙に続いて過半数割れとなった。党内で大平の責任が追及されたものの大平は辞任要求には応じず、選挙後の首班の座を巡って福田と争いが起きて事実上の党内分裂状況に陥った。特別国会での首班指名選挙の投票の結果は僅差であったが大平が勝利した。同年11月の第2次大平内閣の発足で一旦、抗争は収まったがこの抗争は後に四十日抗争と呼ばれた。

1980年(昭和55年)5月16日、社会党が衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。自民党内で反主流派となっていた三木派福田派などの議員69人は本会議を欠席して不信任決議案は可決され、史上初の衆参同日選挙となった。なお、この解散劇は予測に反したハプニング的な解散であることからハプニング解散と呼ばれた。総選挙が公示された5月30日に大平は心筋梗塞の発作を起こして入院し、選挙期間中の6月12日に急死した。6月22日に行われた衆参同日選挙の結果は大平が死去したものの自民党の勝利となり、衆参ともに過半数の議席を確保し安定多数を得た。大平の後継の総理総裁には大平派鈴木善幸が就任し「和の政治」を掲げて党内融和と国内融和に尽力した。

保守回帰と二重権力構造

1980年代に入ると革新自治体も減少し、都市部を中心に自民党への回帰現象が起こった。

1982年(昭和57年)11月の総裁選に鈴木善幸は立候補せず、中曽根康弘河本敏夫安倍晋太郎中川一郎の4人が立候補した。党員党友参加による予備選挙で中曽根康弘が半数を超える票を獲得したため、2位以下の候補は本選挙を辞退し、中曽根が総理総裁に就任した。中曽根派は小派閥であり、党内基盤が弱く、総裁選では党内最大派閥である田中派の力を借りる形になった結果、田中派の議員は党と内閣人事で主要ポストを占めて優遇されたため、第1次中曽根内閣は田中角栄の影響力の強さをマスコミや野党から指摘され、「田中曽根内閣」や「直角内閣」などと呼ばれた[86]

中曽根は、スローガンとして「戦後政治の総決算」を掲げた。具体的には行政改革公社民営化規制緩和、民間活力の活用などの新保守主義的な政策を打ち出した。また、教育改革国防の見直し、靖国神社公式参拝問題などの点で保守的な言動を行った。外交面では1983年(昭和58年)1月の訪米の際でのロナルド・レーガン大統領との会談で「日米両国は太平洋を挟む運命共同体」と発言するなど日米関係強化に努め、冷戦下での西側諸国の一員としての立場を明確に表明した。

1983年(昭和58年)10月12日、東京地裁はロッキード事件に関して田中角栄に有罪判決を下した。野党は田中に対して議員辞職を求めたが田中は議員辞職を拒否し、国会は紛糾した。野党は国民の審判を求めて衆議院解散を要求した。田中も有罪判決後早期の選挙による禊決着を図った。結局、衆参両院議長のあっせんもあり、中曽根は衆議院を解散した(田中判決解散)。同年の第37回総選挙で公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る(これまで同様、保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保)と、中曽根は「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する。政治倫理を高揚し、党体質の抜本的刷新に取り組み、清潔な党風を確立する」との総裁声明を発表した。12月27日、自民党は新自由クラブと連立政権(第2次中曽根内閣)を組んで安定多数を確保した。

1984年(昭和59年)に鈴木善幸や福田赳夫らが田中派大番頭の二階堂進を総裁に推す二階堂擁立構想が同じ田中派の金丸信によって潰されると、やがて田中派は分裂の兆しを見せ始める。ついに1985年(昭和60年)2月に田中派内で竹下を支持する勢力が田中に反旗を翻す形で派中派である創政会(のちの経世会)を結成した。田中は木曜クラブを離脱した竹下に対して「同心円でいこう[94]」と融和的発言を行ったが、同月、脳梗塞で入院した。田中は障害が残って政治活動は出来なくなり、かつての政治力を失った。代わって、田中派を離脱した竹下が金丸信の後ろ盾により台頭するようになる。

中曽根主導の下、1986年(昭和61年)6月に国会は解散(死んだふり解散)され、7月の衆参同日選挙(第38回総選挙第14回参院選)で自民党は追加公認込みで衆参それぞれ304議席(衆議院)、74議席(参議院)を獲得した。選挙後、特例で中曽根の党総裁任期一年延長が決まった。また、8月に新自由クラブは解党し、多くの党員は自民党に合流した。

1987年(昭和62年)10月の総裁選ではニューリーダーと呼ばれた安倍晋太郎、竹下登宮澤喜一のいわゆる安竹宮3人が立候補したものの、かつてのような激しい抗争を嫌った3人は話し合いをした結果、候補者一本化を中曽根に委ねた。結果として竹下を総裁にするという中曽根裁定が下った。なお、このとき皇民党事件が同時に進行していた。こうして中曽根内閣は日本電信電話公社日本専売公社の民営化、国鉄分割民営化、1987年度予算で防衛費1%枠撤廃するなどの政策を実現して4年11か月の長期政権を終えた。

1988年(昭和63年)7月の臨時国会竹下内閣消費税法案を含む税制改革関連六法案を提出した。同じ頃、リクルート関連会社であるリクルートコスモス社の値上がり確実な未公開株政界官界財界の多数の有力者や有力者の秘書、家族らに譲渡されていたとするリクルート事件が発覚した。野党は税制改革関連六法案の審議よりもリクルート問題の解明を優先すべきだと主張して審議拒否や関係者の証人喚問などを要求し、国会はたびたび空転した。野党は法案採決の際に牛歩戦術などで抵抗し、12月9日には副総理兼蔵相であった宮澤がリクルート問題で辞任したが12月24日に税制改革関連六法案は成立した。

1989年(昭和64年)1月7日に、昭和天皇が崩御し皇太子明仁が第125代天皇に即位した。その翌日の1月8日から元号が「昭和」から「平成」となった。また、この皇位継承改元にあたり、竹下登総理総裁(竹下改造内閣)が「大行天皇の崩御に際しての謹話」を発表し、新元号「平成」を 小渕恵三官房長官が発表した。

同年4月1日には消費税が導入されたが、同月に竹下は総理辞任の意思を表明した。5月22日に東京地方検察庁特捜部は中曽根派の藤波孝生をリクルート事件に関与した容疑で受託収賄罪で在宅起訴し、藤波は自民党を離党した。5月25日に衆議院予算委員会は中曽根を証人喚問し、その後、中曽根は自民党を離党した。竹下の後継総裁には様々な候補が取りざたされたが最終的には後継総裁指名を一任されていた竹下と党四役はリクルート事件に関係がなく外務大臣を務めていた中曽根派の幹部である宇野宗佑を推薦し、宇野も受諾した。6月2日、宇野は党両院議員総会の「起立多数」により総裁に就任し、6月3日には竹下内閣は総辞職した。

同年6月に宇野が総理総裁に就任するやいなや宇野の女性スキャンダルが発覚した。宇野は女性スキャンダルに対して明確に否定することはなかった。平成時代となって初の国政選挙となった7月の第15回参院選ではリクルート事件、消費税問題、農産物自由化問題のいわゆる三点セットが争点となり、自民党は逆風にあって当選者はわずか36議席にとどまり敗北した。一方、土井たか子委員長率いる社会党は女性候補者を多数擁立してのマドンナ旋風を巻き起こし、改選議席の2倍を越す46議席を獲得して躍進した。参議院では与野党勢力が逆転(比較第一党は維持)、宇野は総理総裁を辞任した。

8月の総裁選には海部俊樹林義郎石原慎太郎の3人が立候補し、竹下派、旧中曽根派の支持に支えられた海部俊樹が過半数の票を獲得して総理総裁に就任した。海部内閣は少派閥である河本派の海部を党内最大派閥である竹下派会長の金丸信、派閥オーナーの竹下、党幹事長の小沢一郎のいわゆる金竹小3人が背後から操るという構造であり、「二重権力」と指摘された[95]

1991年(平成3年)9月、海部内閣は重要な政治テーマとなっていた政治改革について決着を図るべく、臨時国会にて衆議院の選挙制度に小選挙区制を導入する政治改革法案を提出した。しかし、9月30日、衆議院政治改革特別委員会理事会にて政治改革法案の廃案が決まった。この廃案決定に対して海部は「重大な決意で臨む」と発言して[86] 衆議院を解散する構えを見せたが党内の反発と小沢の解散反対もあり、解散を断念した。海部は10月の総裁選への立候補も辞退して退陣した。

55年体制崩壊、他党との連立時代の到来

1991年(平成3年)10月27日の総裁選で宮澤が勝利し、72歳にして総理総裁に就任した。ところが1992年(平成4年)の東京佐川急便事件により国民の政治不信が増大し、自民党単独の長期連続政権による金権体質が度々指摘されるようになった。また、金丸が失脚したことにより竹下派後継争いに敗れた小沢と羽田らは竹下派後継の小渕派と袂を分かち、羽田派を結成した。

政治改革が必要との流れを受けて宮澤内閣は政治改革関連法案の成立を目指したが廃案となった。折から三塚派若手の武村正義や羽田派など、これに反発した自民党議員が大量に離党した。内閣不信任案が可決されて国会が解散となっての1993年(平成5年)の第40回衆院選では、自民党は解散時勢力を維持したものの過半数には到底届かず、保守3新党が大勝した。また、55年体制の片割れである社会党は惨敗した。この結果、日本新党の細川護熙を首班とする非自民・非共産連立政権が成立し、結党以来の自民党単独の長期連続政権に終止符が打たれた。宮澤はこの選挙結果を受けて総理総裁を辞任し、7月30日に行われた総裁選渡辺美智雄を破って勝利した河野洋平が総裁に就任した。河野は結党以来、初めて野党党首としての総裁となった。自民党が野党に転落すると連立政権に移籍を図る議員が目立つようになった。その一方、細川内閣小選挙区比例代表並立制を柱とした政治改革関連法案の成立を目指し、1994年(平成6年)1月29日に自民党の要求を容れる形で修正案を可決した。

連立政権は細川、新生党の羽田孜と続いたが、いずれも長続きせず、連立政権内で新生党、日本新党、公明党と、社会党、さきがけの不協和音が大きくなっていた。そこで自民党は、社会党の村山富市委員長を首相に推す奇策で、1994年(平成6年)6月30日、社会党、さきがけとの連立政権(自社さ連立政権)として与党に復帰した。

1996年(平成8年)1月11日自民党の橋本龍太郎が首班となり、同年の第41回総選挙では過半数にこそ満たなかったが239議席と復調。改革を訴える民主党の結成によって政権維持のために行政改革を迫られた橋本内閣では、不協和音が生まれるようになる。

旧非自民連立政権側は主に新進党に集約されていたが自民党側の積極的な引き抜きにより、新進党などから自民党に移籍、復帰を目指す議員が現れた。その結果、平成9年には総選挙を経ることなく過半数を回復。年末には新進党は解党し、1998年(平成10年)には社会、さきがけとの連立を解消し単独政権に戻った。

橋本政権下の経済政策における失敗により、同年の第18回参院選で大敗し、参議院での過半数確保に失敗したことから橋本内閣は総辞職、小渕恵三が後継となり小渕内閣が発足した。政権安定のため、1999年(平成11年)小沢一郎率いる自由党の政策を呑む形で自自連立を組み、その後、10月に公明党との自自公連立政権を新たに組み、2000年(平成12年)には自由党の離脱で自由党から分裂した保守党との自公保連立政権に変わった。この時期から公明党との本格的な選挙協力関係が始まった。小渕が病に倒れると森喜朗が後継となり第1次森内閣が発足。しかし、森自らの度重なる失言やKSD事件などの不祥事もあり支持率は低迷、加藤の乱が勃発。その後、森内閣は総退陣に追い込まれ、山崎拓加藤紘一小泉純一郎YKK第1次小泉内閣の樹立を達成した。

聖域なき構造改革とねじれ国会

経済面では、1991年(平成3年)にバブル景気が終焉を迎える。冷戦が終結しグローバル化が急速に進展したことにより、従来型の官僚主導による利益分配的な政治手法が機能しなくなっていたが、政権が不安定な状態が続いたこともあり経済政策を劇的に転換できず、経済成長効果が小さかったとされる公共事業を軸とした膨大な財政出動を続け、国と地方も莫大な財政赤字を抱えるようになった。右肩上がりの経済成長を前提とした経済政策の転換を迫られることになり、そうした時代的要請から2001年(平成13年)に小泉内閣が発足する。小泉純一郎は公共事業の削減などにより政府の財政出動を抑制し、中央政府の権限を民間企業地方自治体に委譲すべきとする聖域なき構造改革を主張した。

小泉は国民的な人気を集め、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。発足時の第1次小泉内閣の内閣支持率は、戦後の内閣として歴代1位(当時)の数字となり、最も高かった読売新聞社調べで87.1パーセント、最も低かった朝日新聞社調べで78パーセントを記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。こうした小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。

小泉は2002年(平成14年)9月に日本の首相として初めて電撃的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、金正日国防委員長と初の日朝首脳会談を実現させるなど積極的な外交にも取り組んだ。

2003年(平成15年)10月の第43回衆議院議員総選挙を控え、選挙前に小泉が中曽根康弘・宮澤喜一両元首相に比例代表の73歳定年制を適用する方針を表明。83歳の宮澤は引退を表明した一方、85歳の中曽根が頑強に抵抗して話題となった。結局、中曽根はこれを受け選挙に出馬しなかった。結果、自民党と公明党、保守新党の与党3党で絶対安定多数を維持したものの、自民党は10議席を減らし、与党全体としては12の議席減となった。選挙後に保守新党は自民党に吸収されたため、自民党は単独過半数は確保したうえで自公連立政権となった。

2004年(平成16年)7月の第20回参議院議員通常選挙を控え、年金制度改革が争点となった。小泉内閣は参院選直前の6月に年金改革法を成立させたが、これが影響し選挙では自民党が改選50議席を1議席下回り、民主党に勝利を許した。

2005年(平成17年)8月、第162回通常国会における郵政民営化法案参議院否決後に行われた第44回衆院選では、「小泉劇場」と言われるポピュリズム的政治手法を採り、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327議席を獲得、歴史的圧勝をおさめた。その一方で「抵抗勢力」とされた議員が郵政民営化法案に反対票を投じたため党を除名されたり、党公認の候補(いわゆる「刺客候補」)に敗れ落選したことで、保守分立時代に逆戻りする可能性が指摘された[96]

小泉政権の後期となる2005年(平成17年)ころより、「ポスト小泉」と呼ばれるニューリーダーが登場。特に、麻生太郎谷垣禎一福田康夫安倍晋三の4人はポスト小泉の最有力候補とされ、4人はそれぞれの名前から一字ずつ取った「麻垣康三」と呼ばれるようになる。

2006年(平成18年)9月20日の総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継に選出される。翌9月21日に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日に第3次小泉改造内閣は総辞職して内閣総理大臣を退任した。任期満了による退任は1987年(昭和62年)の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後4位であり平成時代最長(退任当時)ならびに21世紀最初の長期政権となった。しかし、年金記録問題閣僚のスキャンダルもあって、第1次安倍政権下で行われた2007年(平成19年)の第21回参院選では民主党に惨敗、結党以来初めて参議院第1党から転落した。衆議院と参議院で多数派が異なる構図になった(ねじれ国会)ことで与野党の対立が激化、政策の決定、実行のスピードが遅くなった。これにより首相の指導力も著しく低下し、総理総裁が安倍晋三、福田康夫麻生太郎と毎年のように変わった。

2度目の下野

2009年(平成21年)8月30日の第45回衆院選では、首相総裁経験者や派閥領袖を含む大物議員が次々と落選する大敗を喫し、鳩山由紀夫代表率いる民主党に衆議院第1党の座を明け渡すことになった。獲得議席数は119議席に止まり、2度目の野党転落となった。前回下野した時は、野党とはいえ衆議院での比較第1党であったため、自民党が衆議院で第1党を失ったのは、結党以来初めてのことであった。大臣経験者を含む現職国会議員の離党が相次ぎ、2010年(平成22年)6月までの1年弱で現職国会議員の離党者が15人に上った[97]。この衆議院総選挙惨敗ならびに下野の責任を取り、総理総裁の麻生太郎は引責辞任。総選挙17日後の9月16日をもって麻生内閣は総辞職、民主党政権の鳩山由紀夫内閣が成立。直後の9月28日に施行された総裁選に勝利した谷垣禎一が総裁に就任した。谷垣は、河野洋平以来2人目の野党党首として総理を兼任しない総裁となった。

2010年(平成22年)7月の第22回参院選では改選第1党となり、与党の参院過半数獲得を阻止した。

2012年(平成24年)9月26日、谷垣の任期満了に伴い施行された総裁選において安倍晋三が総裁に選出された。結党以来、総裁を辞任した後の再登板は例が無く、安倍が初めての事例となった。また、谷垣は任期を野党党首として過ごした初の総裁となった(河野洋平は途中で与党に復帰している)。

再度の政権与党復帰と安倍一強

鳩山由紀夫、菅直人野田佳彦と3人の首相が交代する短命内閣が続いた民主党政権下で、2012年(平成24年)12月16日、第46回衆院選で自民党は絶対安定多数を超える294議席を獲得[98](その後、鳩山邦夫が復党し295人)、同じく野党だった公明党とともに政権与党に返り咲いた。総選挙10日後の12月26日、野田第3次改造内閣は総辞職、5年ぶりに安倍が首相に再登板して第2次安倍内閣が発足。3年ぶりに自公連立政権が復活した。

2012年(平成24年)12月から2020年(令和2年)9月までの安倍政権(第2次安倍内閣第4次安倍第2次改造内閣)において、いわゆる「安倍一強」と呼ばれる状況が現れた[99]

「ある意味で、本来の議会内閣制の形が出現した」という面もあるが、首相への権力集中が進み[99]、政策の主導権が執政府へと集中し、党内論議も低調になったとされる[100]。首相主導体制の構築により党が政府の方針に従うことが増え、党内での政策形成がかつてほど重要ではなくなっていった、近年における自民党の変化もある[101]

2013年(平成25年)の第23回参院選で公明党と合わせて過半数割れを解消、2014年(平成26年)の第47回衆院選でも現有議席をほぼ維持した。

2016年(平成28年)に選挙権下限年齢が20歳から18歳に引き下げられて(18歳選挙権)初の国政選挙となった第24回参院選では、一人区で32選挙区中21勝11敗で勝ち越すなどして、追加公認も含め56議席を獲得した(非改選と合わせて121議席)。また、いわゆる「改憲勢力」(自公におおさか維新の会、日本のこころを大切にする党、その他改憲に前向きな諸派・無所属議員を加えた勢力)が衆参両院で3分の2を超え、憲法改正の発議要件を満たすことになった。その後、民主党を離党し無所属で活動していた平野達男が入党したことで、27年ぶりに参院単独過半数に達した。

2017年(平成29年)1月16日に、日本のこころを大切にする党(のちに日本のこころを経て自民党に合流し消滅)と参議院で統一会派「自由民主党・こころ」を結成[102][103]

18歳選挙権が施行されて初の衆院選となった2017年(平成29年)10月の第48回衆議院議員総選挙では、小選挙区で218議席(うち無所属で当選後、公示日に遡って自民党公認となった議員3人を含む)、比例代表で66議席の選挙前と同じ284議席を獲得する圧勝。また南関東ブロック、近畿ブロック、中国ブロックでは小選挙区の候補者が比例復活も含めて全員当選した[104]。勝因の一つには、野党第一党の民進党が分裂し、希望の党立憲民主党の2つの新党が結成され、三大政党制を目指す戦略が奏功したことなどが挙げられる[105]

2018年(平成30年)9月の総裁選では安倍晋三石破茂の一騎打ちとなり、安倍が勝って連続3選を果たし、総裁3期目に突入となった。11月、日本のこころを吸収合併(同党は消滅)。それに先立ち、前月に参議院での会派名を「自由民主党・国民の声」に改称。

2019年(平成31年)4月30日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき第125代天皇明仁が退位(譲位)し[106]、翌2019年(令和元年)5月1日に徳仁が第126代天皇として即位した(明仁から徳仁への皇位継承[107]。この皇位継承に伴い「平成」から「令和」への改元が行われ、新元号「令和」を施行1ヶ月前の同年4月1日に菅義偉内閣官房長官が事前発表した[108]

令和時代となって初の国政選挙となった2019年(令和元年)7月の第25回参院選では、一人区で32選挙区中22勝10敗で勝ち越すなどして、選挙区で38、比例で19、合わせて57議席を獲得した。これは前回参院選を1議席上回るものの、改選66議席には届かなかった。自公連立政権の与党は併せて改選定数124の過半数(63)を超える計71議席を獲得したが、改選議席(77)からは6減らし、自民党単独での過半数は維持できなかった。非改選議員を含めた参院全体では自民・公明の連立与党、それに改憲に前向きな野党の日本維新の会と無所属を加えた「改憲勢力」の非改選議席は79と参議院における全議席の3分の2である85議席を超えず、日本国憲法改憲の発議が可能な圧倒的多数となる3分の2を確保できなかったため、大連立構想や一本釣りなどにより早期の改憲発議を目指すとしている[109]

2020年(令和2年)8月28日、安倍は首相官邸で行われた会見で「持病の潰瘍性大腸炎が再発し、国民の負託に、自信を持って応えられる状態でなくなった」として正式に辞意を表明し、「様々な政策が実現途上にあり、コロナ禍の中、職を辞することについて、国民の皆様に、心より、心より、お詫び申し上げる」と謝罪した。一方で、次の総理大臣が任命されるまでの間、引き続き職務にあたる考えを示した[110]。この辞意表明を受けて、自民党は総裁選を行うこととなったが、総裁選の時期や形式に関する対応は幹事長二階俊博に一任された[111]。二階は両院議員総会で総裁選を行い、党員投票は省略する方向で調整する考えを示した[112]。2020年(令和2年)9月14日施行の総裁選において、石破茂岸田文雄の2名を圧倒的票数で破り、官房長官として約7年8ヶ月にわたり第2次安倍政権を支えてきた菅義偉が総裁に選出された。こうして、同年9月16日に第4次安倍第2次改造内閣は総辞職、菅義偉内閣が成立[113]。菅が国会の内閣総理大臣指名選挙、任命式を経て総理大臣に就任し[114][115]、安倍の後任として菅総裁が第99代内閣総理大臣に就任した。安倍の首相としての(第2次から第4次安倍内閣まで)連続在職日数は2822日を記録し、それまでの大叔父である佐藤栄作(2798日)を抜き歴代最長を記録した。また、(第1次安倍内閣含む)通算在職日数でも3188日と、それまでの桂太郎(2886日)を抜き歴代で最長の在任期間を記録した。

ポスト安倍へ

2020年(令和2年)9月16日菅義偉内閣が成立し、「ポスト安倍」を担うことになった総理総裁の菅義偉は自らの内閣を「国民のために働く内閣」と名付け、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策に追われることになった。菅は当初、次期総裁選への出馬に意欲を示していた。衆議院議員任期満了は2021年(令和3年)10月21日に迫っており、2021年6月に入ると1976年(昭和51年)の衆院選三木内閣)以来、戦後2度目の任期満了総選挙が行われる見通しが出て来た[116]。この間、感染者の増減を繰り返すCOVID-19対策や、2020年東京オリンピックなどが入り、解散を行わないまま9月に入った。しかし、9月3日午前の党臨時役員会で、出馬しない意向を表明した。これにより菅義偉内閣は1年余りで幕を閉じることとなった[117]

2021年(令和3年)9月29日、菅の任期満了に伴う総裁選(9月17日公示)が行われ、岸田文雄が第27代自由民主党総裁に就任(他の立候補者:高市早苗河野太郎野田聖子)。10月4日第1次岸田内閣自公連立政権)が成立。岸田はこの内閣を「新時代共創内閣」と名付けた。この時点で、任期満了による総選挙と、解散総選挙のいずれも選択可能という、珍しい状況になっていたが[118]、岸田新首相は10月31日第49回衆議院議員総選挙の投開票(10月14日第205臨時国会会期終了に伴う衆議院解散10月19日:公示)を実施する日程を決定し[119][120]、10月14日、予定通り衆議院は解散された。その後特別国会が召集され日本国憲法第70条の定めに基づき内閣総辞職をしなければならないことから、この内閣は日本の憲政史上最も短い政権になると見られる[121][注釈 12]

第49回衆院選は、10月31日投開票の結果、自民党は単独で絶対安定多数の261議席(追加公認2議席含む)を獲得した。この他、自民入党希望・党籍を有しながら公認漏れの保守系無所属が4議席を得た[注釈 13]。公認は解散時から15議席を減らしたが、32議席を獲得した公明党を併せ、与党全体として大勝した[122]。小選挙区では野党共闘が選挙の焦点の一つとなり、自民は麻生副総裁が「立憲共産党」と揶揄するなど強い批判を行った[123]。自民は甘利明幹事長が小選挙区で落選(比例区当選)するなど、小選挙区では2017年より29議席を減らした。しかし、比例代表では134万票を増やして6議席を上積みした。また、日本維新の会が11から41議席と大きく議席を伸ばし、同党が本拠地とする大阪・兵庫では自民の議席を奪ったが、「改憲勢力」としては、選挙前より議席を増やす結果となった[122]

同年11月10日第2次岸田内閣自公連立政権)成立[124]

2022年(令和4年)7月、安倍晋三銃撃事件が発生。暗殺犯は世界平和統一家庭連合(旧統一協会)の家庭の出身(宗教二世)であった。自民党及び所属議員らと統一協会の長年の関係を問題視する動きが強まった(旧統一協会問題)。

2023年(令和5年)11月、一部の派閥において、政治資金パーティーの収入を過少記載していた可能性があると報じられた。これを受けて、党内6派閥の内、4派閥が解散を決定またはその意向であることが発表された[125][126]

略年表

前史

  • 1953年頃から、保守合同への動きが活発化[127]
  • 1954年11月 - 改進党と日本自由党の合同により日本民主党を結成[127]
  • 1955年5月 - 自由党・日本民主党の両党幹部会談[127]
  • 1955年6月 - 緒方竹虎・自由党総裁と鳩山一郎・日本民主党総裁による党首会談。「保守勢力を結集し、政局を安定させる」ことで意見の一致をみる。両党から選出された委員からなる政策委員会・新党組織委員会が置かれる[127]
  • 1955年10月 - 政策委員会・新党組織委員会を新党結成準備会に切り替える。

結党から1970年代まで

  • 1955年11月15日 - 日本民主党と自由党の合併(保守合同)により結成。東京・神田の中央大学講堂において、結成大会を開く。当初は総裁を置かず「総裁代行委員」を置き、鳩山一郎(首相で日本民主党総裁)、緒方竹虎(自由党総裁)、三木武吉(日本民主党総務会長)、大野伴睦(元衆議院議長)の4人が務めた。所属国会議員は、衆議院298名、参議院115名[127]
  • 1956年4月5日 - 総裁選を施行し、鳩山一郎首相を初代総裁に選出。
  • 1956年7月8日 - 結党後初の大型選挙となる第4回参議院議員通常選挙において、122議席に終わり、過半数獲得に失敗。
  • 1956年12月14日 - 総裁選を施行し、石橋湛山通産相が岸信介元商工相に決選投票で逆転勝利し、第2代総裁に選出。
  • 1957年2月1日 - 池田勇人の仲介により、吉田茂元首相と佐藤栄作が入党。
  • 1958年5月22日 - 結党後初の総選挙となる第28回衆議院議員総選挙で287議席を獲得し、166議席の日本社会党に勝利。
  • 1960年11月20日 - 第29回衆議院議員総選挙において296議席を獲得。
  • 1976年6月25日 - 河野洋平ら6名[注釈 14] が離党、新自由クラブ結成(1986年8月15日解党、大半が自民党に合流)。
  • 1976年12月5日 - 第34回衆議院議員総選挙で大敗、初めて公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る(直後に保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保)。

1980年代

1990年代

2000年代

  • 2000年4月1日 - 自由党との連立を解消。同党から分裂した保守党(2002年12月、保守新党に改組)と連立を組む。(自公保連立)
  • 2003年11月21日 - 保守新党を吸収合併。(自公連立)以降、公明党との二党連立体制が定着する(現在に至る自公連立政権開始)。
  • 2005年11月22日 - 立党50周年記念党大会で「新理念」、「新綱領」、「立党50年宣言」を採択。同時に日本国憲法改正案として党議決定した「新憲法草案」を正式発表。
  • 2007年7月29日 - 第21回参議院議員通常選挙で野党第1党である民主党に大敗。結党以来初めて参議院第1党から転落。
  • 2009年8月30日 - 第45回衆議院議員総選挙で解散前を大幅に下回る119議席の歴史的大敗、結党以来初めて衆議院第1党の地位を失い、民主党へそれを明け渡す。
  • 2009年9月16日 – 麻生内閣麻生太郎総理総裁)総辞職、民社国連立政権の鳩山由紀夫内閣発足。約15年ぶりの野党転落。
  • 2009年9月28日 – 総裁選で後継総裁として谷垣禎一が、河野洋平以来2人目の(総理を兼任しない)野党党首として就任。

2010年代

  • 2010年1月24日 - 第77回定期党大会にて、国粋主義復古主義右翼色を強めた「平成22年(2010年)綱領[19] を発表。
  • 2010年7月12日 - 第22回参議院議員通常選挙で改選前を13議席、与党第1党である民主党を7議席上回る51議席を獲得。9年振りに改選第1党となる。
  • 2012年4月27日 - サンフランシスコ講和条約締結60年に当たり、新しい改憲試案を発表(2005年試案をさらに改定)。
  • 2012年9月26日 – 谷垣の任期満了に伴う総裁選で、安倍晋三が総裁に再就任。
  • 2012年12月16日 - 第46回衆議院議員総選挙で294議席を獲得し、衆議院第1党に返り咲く。
  • 2012年12月26日 – (野田第3次改造内閣総辞職に伴い)第2次安倍内閣安倍晋三総理総裁)発足。約3年にわたった民主党政権が終焉を迎え、公明党とともに3年ぶりに政権与党復帰(自公連立政権復活)。
  • 2013年7月21日 - 第23回参議院議員通常選挙において、第19回参議院議員通常選挙以来12年ぶりに比例区において第1党となるなど、現行選挙制度下で最多となる65議席を獲得。公明党の獲得議席および非改選議席を合わせると自公連立与党が優位となり、前年の総選挙以来続いていた両院のねじれ状態が解消された。
  • 2014年12月14日 - 第47回衆議院議員総選挙において、単独で絶対安定多数の266を超える291議席を獲得。公明党と合わせて計326議席を獲得、議席数の3分の2以上を維持。
  • 2016年7月10日 - 第24回参議院議員通常選挙において、選挙区で37、比例で19、合わせて56議席を獲得した(非改選と合わせて121議席)。
  • 2016年7月23日 - 無所属の参議院議員1名が入党し、27年ぶりに参議院で過半数(122議席)を回復した。
  • 2017年3月5日 - 第84回定期党大会が開催され、その中で自民党総裁の任期を従来の「連続2期6年」から「連続3期9年」に延長することを正式決定[128]
  • 2017年7月2日 - 2017年東京都議会議員選挙において、23議席に終わり、都議会第一党を都民ファーストの会に明け渡し、2009年都議選の38議席を大幅に下回る過去最低の大惨敗を喫した[129]
  • 2017年10月22日 - 第48回衆議院議員総選挙において、単独で284議席を獲得し圧勝。公明党と合わせて計313議席を獲得、議席数の3分の2以上を維持。
  • 2018年11月1日 - 日本のこころを吸収合併[130]
  • 2019年7月21日 - 第25回参議院議員通常選挙において、選挙区で38、比例で19、合わせて57議席を獲得した。この結果、3年ぶりに参議院で過半数を失った。

2020年代


注釈

  1. ^ 2010年代に存在した同名の政党とは無関係。
  2. ^ 衆議院議長の額賀福志郎を含む
  3. ^ 参議院議長の尾辻秀久を含む
  4. ^ 党内には中道右派[A] や、日本会議所属議員を中心とした極右[12][13][14][15]超国家主義[16][17]とされる勢力も存在する。
  5. ^ 憲法改正(あるいは自主憲法制定[38])は自民党立党以来の党是であり[39]、2010年の綱領では「日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す」としている[19]
  6. ^ 西沢保・池田幸弘によれば、日本政治では純粋な経済的自由主義は見つけにくいという。自由民主党の中には、公共支出やケインズ経済学の重要性を未だ信じるメンバーも、大幅な赤字のためにこの方法を採用したがらないメンバーもおり、経済政策に関して様々な態度がある[41]
  7. ^ 地方選では自民党と日本共産党共闘することがある[47]
  8. ^ 上州戦争森奥戦争などの「名物選挙区」も存在した。
  9. ^ 新党名を自由民主党とすること、次期内閣首班として鳩山が政務を担うこと、緒方が中心となって党務を担うこと、党執行部が日常的な党務を運営すること、重要問題は代行委員の合議によること、代行委員には鳩山・緒方・三木・大野、幹事長には岸、総務会長には石井光次郎、政調会長には水田三喜男が就任すること[75]
  10. ^ さらに、残った無所属の小沢貞孝も後に社会党入りしたため、二大政党以外は退潮傾向にあった共産党の1人だけだった。
  11. ^ 社会党は自民党の半分程度であったが、全議席の1/3を確保して自民党の目指す憲法改正を阻止することには意義があった。以降概ねこの議席比率が維持できたため、「一と二分の一政党制」とも呼ばれた。
  12. ^ 従来の記録では日本国憲法下では羽田内閣羽田孜首相)の64日、明治憲法下では東久邇宮内閣東久邇宮稔彦王首相)の54日。当内閣は発足から投票日までの28日に特別国会召集までを加えた日数になる。
  13. ^ 細野豪志平沼正二郎西野太亮三反園訓。細野は11月5日、西野は12月7日に自民入党が認められた。平沼は党籍を有しながら公認漏れだったが、11月8日に自民会派入りが認められた。
  14. ^ 離党した6名のうち後に自民党に復党したのは・西岡武夫(1980年)、河野洋平(1986年)、山口敏夫(同)。新自クを離党したのは小林正巳(1980年)と、参議院議員の有田一寿(1979年8月)。
  15. ^ ちなみに単独過半数を回復した251人目は北村直人である。
  16. ^ この例を適用されたのが改革クラブから移籍した松下新平で、当時の総裁だった谷垣禎一に直接面会して了承されている[要出典]
  17. ^ もっともかつて“世界一の金持ち政党”といわれた中国国民党本部(野党転落を期に現在は売却)やフランス共産党本部(世界的建築家オスカー・ニーマイヤー設計)など、大規模な党本部施設をもつ政党は少なくない。
  18. ^ 党則89条の1では「党本部」宛に提出することとなっているが、実務は幹事長が受け付ける。
  19. ^ この適用例としては2005年に逮捕された中西一善がいる。
  20. ^ 直近の例としては郵政解散の時の亀井郁夫がいる。亀井はその後、国民新党へ移籍した。
  21. ^ この例外として上川陽子がいる。
  22. ^ そのために復党が議題に上らなかった例として郵政解散のときの野呂田芳成がいる。
  23. ^ また党分裂に積極的に関与したという理由で新党の最高幹部が除名される例もあり、最近では旧国民新党代表を経験した亀井静香や綿貫民輔、旧たちあがれ日本で共同代表を務めた与謝野馨、新党改革元代表で第19代東京都知事の舛添要一らがいる。
  24. ^ 例外として渡辺孝一は比例名簿上位登載を連続4回。
  25. ^ この例に静岡5区で4回連続小選挙区敗退した吉川赳がいる。吉川は1回目と4回目が比例復活当選、2回目は復活できなかったが、3回目は選挙後1年半近く経ってから繰り上げで比例復活した。
  26. ^ この例に埼玉5区から4回連続、合計5回比例復活した牧原秀樹がいる。牧原は立憲民主党初代党首の枝野幸男と戦っている。
  27. ^ この例に静岡6区から3回連続比例復活した勝俣孝明がいる。
  28. ^ 森田健作は2003年の総選挙で中西一善に地盤を譲った後、千葉県知事選挙に立候補するまで「東京都衆議院選挙区第二支部長」であった。
  29. ^ この例に静岡5区で旧希望の党から鞍替えした細野豪志がいる。細野は第49回衆議院総選挙で当選後、入党を認められた。
  30. ^ a b c d e 道徳再武装運動会員
  31. ^ a b c d アメリカ対日協議会関係者
  32. ^ a b 同一閨閥に属する大久保利通牧野伸顕と並び、従一位に叙されている。
  33. ^ これが為、アジア・太平洋地域に集団安全保障体制は存在しない。[要検証]
  34. ^ 総務省HP。以下端数は切り捨て。
  35. ^ 電通出身の自民党"世襲議員"は近年であれば、高村正大平井卓也中山泰秀などがいる。

出典






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