社青同解放派 概要

社青同解放派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 10:21 UTC 版)

概要

新左翼党派としては、唯一、起源が日本共産党にない。しばしば誤解されているように安保ブントの残党が社青同に加入したのが起源の一つ、ということもない。そのため、指導部は他の新左翼より10年若い。1960年代前半、無の状態から5年間で全国組織が建設された。

1960年代前半、旧社会党内の構造改革論をめぐる対立が社青同内に持ち込まれ、1964年2月の「社青同第4回大会」では、社会主義協会派が構改派から指導権を奪うなど社青同内での対立が激しくなっていた。そのころから解放派も次第に勢力を伸ばしはじめ、1965年3月に公式に社青同解放派を結成した。社会党東京都本部オルグなどに解放派メンバーが多数起用されたことも、解放派組織拡大に有利に働いた。解放派は協会派と対立を深め、1967年9月3日の東京地本での衝突(九三事件)をはじめ各地で両派の暴力的衝突を引き起こした。1969年10月には解放派は独自に政治組織の革命的労働者協会を結成するに至った。革労協結成宣言は公然と社民・民同解体を主張し、1970年以降社会党解放派パージの理由となった。パージを逃れた者も、これ以降社会党内で解放派として活動することはできなくなった。社青同では、1971年2月の第10回大会でついに集団除名され、解放派は71年9月独自に「社青同第10回再建大会」を開催し、自派傘下の社青同を結成した。機関紙は「団結の砦」。こうして解放派は1970年代に入って社会党・社青同内の分派としての実態を失い、独自の党派となった。

他の多くの新左翼が、トロツキーあるいはレーニンマルクス・レーニン主義路線をとるのに対して、解放派は、第一インター正統派マルクス主義復権の立場に立ち、ボルシェヴィキ的な前衛党による外部注入的な大衆指導路線を批判する反ボルシェヴィズム(反レーニン主義)、ローザ・ルクセンブルク主義、左翼共産主義、労働者反対派(アレクサンドラ・コロンタイなど)的立場である。なおレーニン主義の外部注入論を否定しているが、前衛的部分の組織化を否定していたわけではなく、共産主義通信委員会という前衛的組織が存在した。

また他の新左翼の多くが、自らを「新左翼」と呼称し、自らを社共に変わる真の前衛・共産党と意識していた結果、共産党のことを「代々木」と呼ぶのに対して、解放派は平然と「日共」と呼称しているなど、このあたりにも、意識の微妙な違いが見て取れる。また、他党派の実力闘争に関しても革マル派は「権力の走狗」と主張、中核派もほとんど言及しないのに対して、解放派は機関紙上で肯定的に言及することがしばしばある[4]

巷では社青同解放派=革命的労働者協会(革労協)と同一であるとみなされがちだが、正確には違う。解放派という潮流の中心組織が革労協であることは間違いないが、協会派に近い左派社民のグループから極左暴力路線の革労協最左派(=学生委員会中心で武装闘争の強化を唱える集団)までを内包した統一戦線が解放派と呼ばれた。 このように様々な潮流を内包したからこそ、組織内では常に紛争が絶えなかったという見方もある。








固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「社青同解放派」の関連用語

社青同解放派のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



社青同解放派のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの社青同解放派 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS