疋壇城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/02 13:14 UTC 版)
概要
疋田は、古くからの交通の要衝であり、近江から越前に向かう複数の道が集合する地点となっている。主要な道として、七里半越(国道161号)、新道野越(国道8号)、深坂越、刀根越が挙げられる。軍事上も重要な地であるため、古代には三関のひとつである愛発関があったいわれ、戦国時代初期には朝倉氏により疋壇城が築かれたが、その後、織田信長との戦いを経て同城は廃城となった。現在、城跡付近は大半が畑になっているが、本丸跡、石垣、堀の遺構が残されている。
歴史
- 文明年間(1469 - 87年):朝倉氏家臣の疋壇対馬守久保により築城。
- 以後、疋壇氏は、城主として七代百余年にわたって続いた。
- 初代 対馬守 - 2代 左衛門佐 - 3代 兵庫 - 4代 三六郎 - 5代 喜助 - 6代 駒之助 - 7代 与一郎
- 元亀元年(1570年)
- 天正元年(1573年)
伝承
疋壇城には落城時の悲話が伝わる。刀根坂の戦いで朝倉軍は三千名以上の戦死者を出した。疋壇城で囚われの身となった家臣の鳥居与七郎の妻は、軍卒らの乱暴を受けそうになった。そこで彼女は、「私の父と夫は刀根にて戦死し、母と姉は行方不明だが生きていると思うので、私の身の上を伝えたい。その望みが叶えば御意に従う。」と言った。紙と筆を与え、書状を書き終えると、彼女は近くの古井戸に身を投げた。残した書状を見ると、「世にふれば よしなき雲ぞ おほふらん いざいりてまし 山の端の月」(自らを月にたとえ、生きてこのまま辱めを受けるなら死んでしまおう という意)とあった。軍卒らもその貞烈に涙したという。
刀根坂の戦いで戦死した武将の墓と言われるものが疋田にいくつかある。そのうちのひとつは、五位川と笙の川の合流地点の橋のたもと、国道8号沿い、山麓にある。国道工事の際、多数出てきたものということである。
アクセス
- 北陸自動車道敦賀インターチェンジから国道8号を滋賀方面へ車で10分。JR新疋田駅 から徒歩10分。
- ^ a b “国・県指定文化財一覧 敦賀市-Tsuruga City-”. www.city.tsuruga.lg.jp. 2023年3月30日閲覧。
- ^ “福井県の文化財 | 敦賀市 疋壇城跡”. info.pref.fukui.jp. 2016年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年8月21日閲覧。
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