清の兵制 八旗の制度

清の兵制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/26 15:24 UTC 版)

八旗の制度

乾隆帝の南方行幸、第12巻:宮殿への帰還(拡大図),1764—1770,徐揚画

17世紀初期のヌルハチによる満州民族の統一と、帝国への挑戦の成功の鍵となったものの一つは八旗の創設であった。八旗は満州人のみで構成される団体で、軍事的な効率性を持つとともに、経済的、社会的、政治的な役割も併せ持っていた[2]。遅くとも1601年(それよりは数年早くからの可能性もある)には、ヌルハチは配下の兵士たちとその家族らを「ニル」と呼ばれる常設の大隊に登録させた。「ニル」というのは、女真族の男たちが伝統的に軍事教練や戦争遂行のために編成した小部隊の名称からとったものである[3]。1607年までには、これらの大隊をさらに大きな「グサ」あるいは「旗」と呼ばれる単位にまとめた。「旗」は軍旗の色(黄、白、紅、藍)で区別された[4]。1615年には各旗に紅の縁取り(紅旗にあっては白の縁取り)を加えた「旗」を編成して、女真族の軍隊として全部で八旗とした[4]。「旗」の制度においては、ヌルハチの新国家に敗れた他の女真の部族を単純に大隊として編入することで吸収できた。この統合の制度によって、女真の社会が小さな部族単位の縁組を超えて再編成されることにもつながった[5]

清の支配は万里の長城の北まで拡大し、「旗」の制度も拡大を続けた。モンゴル系のチャハルを他のモンゴル部族の力を借りて1635年に破って間もなく、ヌルハチの息子で後継者のホンタイジは新しいモンゴル系の家来と同盟者を蒙古八旗に編入し、元からある満洲八旗と並立させる体制とした[6]。ホンタイジは漢人の軍を統合することにはより慎重であった[7]。1629年、彼は最初に「漢軍」(満州語: ᠨᡳᡴᠠᠨ
ᠴᠣᠣᡥᠠ
nikan cooha)1個(約3000人)を創設した[8]。1631年には、これらの漢軍に、西欧式の大砲を製造・運用できる兵たちが編入され、これにより「重軍」(ujen cooha)と改名された[9]。1633年までには、これらは20個中隊4500人になり、黒い軍旗を与えられていた[9]。これらの漢人の部隊は1637年に二旗に、1639年には四旗に、そして最終的に1642年に八旗に編成された[6]。これらは漢軍八旗と呼ばれる。

旗の序列は次の通り:正黄、鑲黄、正白、正紅、鑲白、鑲紅、正藍、鑲藍。この内、正黄、鑲黄、正白までを総称して「上三旗」と呼び、皇帝直率である。その他の旗は「下五旗」と呼ばれ、五旗の各旗の旗王は1人ではなく複数人おり、皇帝の皇子やその子孫が旗王に封ぜられていた。その中では爵位を元に序列が存在し、最も爵位の高い旗王が旗全体を代表しており、ヌルハチの直系子孫で建国に功績のあった皇子の子孫である親王家(非公式的に「鉄帽子王」と呼ばれた家系)の親王たちがそれを担った。ヌルハチの時代とホンタイジの時代の初期は、これらの旗王たちが議政王大臣会議と軍の最高指導部を構成していた[要出典]

上三旗
正黄旗 鑲黄旗 正白旗
下五旗
正紅旗 鑲白旗 鑲紅旗 正藍旗 鑲藍旗

  1. ^ Elliott 2001, p. 40.
  2. ^ Elliott 2001, pp. 40 (満州人のみ) 、 57 (ヌルハチの成功に果たした役割)
  3. ^ Elliott 2001, p. 58.
  4. ^ a b Elliott 2001, p. 59.
  5. ^ Roth Li 2002, p. 34.
  6. ^ a b Roth Li 2002, p. 58.
  7. ^ Elliott 2001, p. 75.
  8. ^ Roth Li 2002, p. 57.
  9. ^ a b Roth Li 2002, pp. 57–58.
  10. ^ Elliott 2001, p. 480 (降った明軍の緑営への統合); Crossley 1999, pp. 118–19 (降伏した明軍は1644年は漢軍に統合されたが、1645年以降から制限が始まった)
  11. ^ Wakeman 1985, p. 480, note 165.
  12. ^ Elliott 2001, p. 128.
  13. ^ Lococo Jr. 2002, p. 118.
  14. ^ a b Lococo Jr. 2002, p. 120.
  15. ^ Dreyer 2002, p. 35.
  16. ^ Elliott 2001, pp. 284–290.
  17. ^ Waley-Cohen 2006, pp. 63–65.
  18. ^ Elliott 2001, pp. 283–284.
  19. ^ Elliott 2001, pp. 299–300.
  20. ^ Elliott 2001, pp. 184–186.
  21. ^ Waley-Cohen 2006, pp. 84–87.
  22. ^ Waley-Cohen 2006, p. 58.
  23. ^ Crossley 1990, pp. 126–27.
  24. ^ a b Liu & Smith 1980, pp. 202–10.
  25. ^ a b c Horowitz 2002, p. 156.
  26. ^ Horowitz 2002, pp. 156–57.
  27. ^ Crossley 1990, p. 145.
  28. ^ a b c Horowitz 2002, p. 157.
  29. ^ Wright 1957, p. 212.
  30. ^ Wright 1957, p. 220.
  31. ^ a b Horowitz 2002, p. 158.
  32. ^ Horowitz 2002, pp. 158–59.
  33. ^ Horowitz 2002, p. 159.
  34. ^ Elman 2005, pp. 379–83.
  35. ^ Elman 2005, p. xxii.
  36. ^ Wakeman 1977? [要文献特定詳細情報]
  37. ^ Liu & Smith 1980, pp. 251–273.
  38. ^ For an overview, see Edward L. Dreyer. China at War, 1901–1949. (London; New York: Longman, Modern Wars in Perspective, 1995). ISBN 0582051258.





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