液体呼吸 液体呼吸の概要

液体呼吸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/25 23:50 UTC 版)

初期の実験

1960年代半ば、ニューヨーク州立大学バッファロー校の生理学者キルストラ (J. Kylstra) は、食塩水には高圧下で酸素を多く溶かしこめることを見出した。アメリカ海軍の与圧室で、キルストラはマウス生理食塩水を肺から出し入れできるか、また生存するのに十分な量の酸素を食塩水から取り込むことができるかを試す実験を行った。結果としてマウスやラットは液体中で呼吸することができたが(18時間まで生き残った)、二酸化炭素が十分に排出できなかったためすぐに致死量に近い値に達し、二酸化炭素中毒に陥った。これは液体呼吸を人間に適用する前に解決すべき問題であった。

1966年、レランド・クラーク (Leland Clark) とゴラン (Golan) もマウスを使った液体呼吸に関する実験を行った。酸素や二酸化炭素はフロンなどのフルオロカーボン類に非常に溶けやすい。レランド・クラークは、もし肺胞がフルオロカーボン中から酸素を取り込み二酸化炭素を排出することができるなら、動物が呼吸する際に使えるはずだと考えた。実験はまず麻酔したマウスで行われ、その後数種の動物で行われた。気道に管を差し込んで入り口の部分を膨らませて密着させ(=気管挿管)、外気が肺に入らないように、また呼吸用の液体が漏れ出ないようにした[1]

フルオロカーボンに酸素を通気し溶かしてから実験動物の肺に入れ、毎分6回の周期で吸入と吐出を繰り返した。これを最長1時間続けてから液体を除去したところ、ほとんどの動物は数週間生き残り、その後肺への損傷のため死亡した。死骸の解剖結果は肺が収縮した際に充血が起こるが膨らんでいる際には正常であったことを一様に示していた。

キルストラの研究と同じく、クラークの場合でも動物の気道の広さが問題であった。気道が狭いと肺に入っていくことができる液体の量が制限される。このことなどが原因となって二酸化炭素が肺にたまり、十分な速さで除去されなくなっていた。クラークは、マウスがフルオロカーボン中で生き延びることができる時間はフルオロカーボンの温度に反比例することを発見した。すなわち、液体が冷たいほど呼吸も遅くなり、二酸化炭素の蓄積が避けられる。二酸化炭素中毒を回避する唯一の方法は低体温状態にすることであった。この方法によって問題はほとんど解決し、1つの例では 18 ℃ において20時間、液体呼吸で生き続けた。

初期の実験では全ての動物が肺に損傷を受けていた。しかし、これがフルオロカーボン中に含まれた毒性の不純物によるものなのか、フルオロカーボンそのものの影響か、またはそれ以外の原因によるものかは定かではなかった。肺への損傷の原因、二酸化炭素排出の問題、フルオロカーボンの体組織への残留が人体へ適用する前に解決すべき点であった。また、パーフルオロカーボンは空気よりも密度粘度が高いため抗力も大きくなり、呼吸するのにより多くの労力が必要とされる。以下にフルオロカーボン類の物性を示す。パーフルオロブチルパーフルオロテトラヒドロフランは商品名 フロリナートFC-75 や FC-80 として、参考文献 (Miyamoto, Koen, Matthews) に挙げた各種の実験に用いられている。

化合物 分子式 構造式 密度 (g/cm−3) 粘度 (Pa・s) 酸素の溶解度
(モル分率 × 103
二酸化炭素の溶解度
(モル分率 × 103
出典
パーフルオロオクタン C8F18 1.7542 0.0125 [2]
パーフルオロブチル
パーフルオロテトラヒドロフラン
C8F16O 1.7657 0.0140 5.60 22.3 [3]
パーフルオロ-1-イソプロポキシヘキサン C9F20O 1.7449 0.0154 6.60 25.0 [3]
パーフルオロ-1,4-ジイソプロポキシブタン C10F22O2 1.7465 0.0205 6.50 24.8 [3]

その後の発展

後年、液体呼吸の技術は着実に改良され、進歩してきた。二酸化炭素の排出法の改善により実験動物の生存率は飛躍的に向上した。使用されるパーフルオロカーボンは 100 mL 中に 65 mL の酸素と 228 mL の二酸化炭素を溶かすことができる。1990年代初頭までに発展した液体呼吸法の手順は以下に示すようなものである。

  1. チオペンタールの静脈注射で実験動物を麻酔する。
  2. あお向けに寝かせ、挿管する。
  3. 血液試料を採取する。パーフルオロカーボンの温度を調節する。低体温にする必要はなくなっている。
  4. 気管内チューブを通してパーフルオロカーボンを肺に注入する。
  5. 備え付けの 3 L の容器にパーフルオロカーボンを満たす。保温、酸素供給、二酸化炭素除去を行う装置の間をポンプで循環させる。三方空圧弁から管を通し、実験動物に流す。吸息はコンピューターで制御する(流量 18 mL 毎秒)。1分あたり約6呼吸の速さで実験動物の肺に液体を送り込み、容器に戻す。
  6. 実験終了後、被検体を15秒間ほど傾けてパーフルオロカーボンを肺から出す。これは映画『アビス』の一場面でも見られ、モンク少尉がラットの肺から液体を吐き出させていた。この映画でラットは実際に液体呼吸を行っていた。[4]

1990年代初頭に行われたこれらの実験は成功を収めている。パーフルオロカーボン中でイヌは約2時間生存し、実験後も若干低酸素状態になるのが普通だが数日中に正常に戻る。解剖検査を行った場合の典型的な知見は軽い浮腫やいくらかの出血であり、初期の実験で見られた肺への損傷は明らかに改善されている。


  1. ^ Clark, L. C., Jr.; Gollan, F. (1966). "Survival of Mammals Breathing Organic Liquids Equilibrated with Oxygen at Atmospheric Pressure". Science 152: 1755–1756. アブストラクト DOI: 10.1126/science.152.3730.1755 PMID 5938414
  2. ^ Brice, T. J.; Coon, R. I. (1953). "The Effects of Structure on the Viscosities of Perfluoroalkyl Ethers and Amines". J. Am. Chem. Soc. 75: 2921–2925. DOI: 10.1021/ja01108a039
  3. ^ a b c Tham, M. K. et al. (1973). "Physical Properties and Gas Solubilities in Selected Fluorinated Ethers". J. Chem. Eng. Data 18: 385–386. DOI: 10.1021/je60059a011
  4. ^ この場面はイギリスでは動物虐待であると看做され取り除かれた
  5. ^ Miyamoto, Y.; Mikami, T. (1976). "Maximum capacity of ventilation and efficiency of gas exchange during liquid breathing in guinea pigs". Jpn. J. Physiol. 26: 603–618. PMID 1030748
  6. ^ Koen, P. A. et al. (1988). "Fluorocarbon ventilation: maximal expiratory flows and CO2 elimination". Pediatr Res. 24: 291–296. PMID 3145482
  7. ^ Matthews, W. H. et al. (1978). "Steady-state gas exchange in normothermic, anesthetized, liquid-ventilated dogs". Undersea Biomed. Res. 5: 341–354. PMID 153624
  8. ^ Leach, C. L. et al. (1996). "Partial Liquid Ventilation with Perflubron in Premature Infants with Severe Respiratory Distress Syndrome". NEJM. 335 (11): 761–767. PMID 8778584
  9. ^ Hlastala, M. P.; Souders, J. E. (2001). "Perfluorocarbon Enhanced Gas Exchange". Am. J. Respir. Crit. Care Med. 164: 1–2. PMID 11435228
  10. ^ Bleyl, J. U. et al. (1999). "Vaporized perfluorocarbon improves oxygenation and pulmonary function in an ovine model of acute respiratory distress syndrome". Anesthesiology 91: 340–342. PMID 10443610
  11. ^ Kandler, M. A. et al. (2001). "Persistent Improvement of Gas Exchange and Lung Mechanics by Aerosolized Perfluorocarbon". Am. J. Respir. Crit. Care Med. 164: 31–35. PMID 11435235
  12. ^ von der Hardt, K. et al. (2002). "Aerosolized Perfluorocarbon Suppresses Early Pulmonary Inflammatory Response in a Surfactant-Depleted Piglet Model". Pediatr. Res. 51: 177–182. PMID 11809911
  13. ^ ツィオルコフスキー, コンスタンチン (1960). 月世界到着!―ヒマラヤから月へ. 東京: 朋文堂 






液体呼吸と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「液体呼吸」の関連用語

液体呼吸のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



液体呼吸のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの液体呼吸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS