浅原源七 現在の評価

浅原源七

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/13 02:58 UTC 版)

現在の評価

浅原は戦中・戦後の日産自動車の経営に深く関わり、激動の時代を乗り切った有能な経営者として記憶されている。特に日産争議を経営側の勝利で乗り切った事は、その後の日産の発展に大きく寄与したともいわれている。

その一方、御用組合とも揶揄される第二組合の設立により第一組合が完全に破壊された事は、その後の労働運動の発展を阻害し、経営者資本家)による不当労働行為の横行につながったという批判もなされている。また、その後の日産社内においては日産自動車労組の影響力が増大し、塩路一郎委員長と川又克二社長との蜜月関係は社内の労使関係や人間関係をいびつなものにした。

なお、自動車技術会はその後も発展を続け、個人会員約3万5000名、賛助会員(法人)約500社にまで発展した。初代会長である浅原を記念して、彼の死後の1980年には従来の「学術賞」と「技術賞」をそれぞれ「浅原賞学術奨励賞」と「浅原賞技術功労賞」に改称し、彼の功績を今でも称えている。

関連項目

外部リンク

先代
-
自動車技術会会長
初代:1947年 - 1949年
次代
豊田喜一郎

  1. ^ a b c d e f g h i 技術の基礎作りと自動車技術会の設立 日産自動車(株)元社長、自動車技術会 初代会長、理学博士 浅原 源七”. 日本自動車殿堂. 2023年7月13日閲覧。
  2. ^ 浅原源七 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年7月9日閲覧。
  3. ^ 公職追放の該当事項は「日産重工業(株)専務社長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、28頁。NDLJP:1276156 


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