民衆十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 06:14 UTC 版)
指揮の混乱
東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスは、普通の軍隊でない「軍隊」の予想外の到来に対して困り果てた。大軍に対する食料の負担も重く、治安上の不安も増したため、皇帝は3万人余りの軍勢をボスポラス海峡の対岸へ渡らせることにし、8月6日に一行は小アジア側に到着した。皇帝は一行がテュルクにより皆殺しされるのを承知の上で道案内もつけずに十字軍を小アジアに送り出したのか、あるいは皇帝は制止したにもかかわらず一行が行進を続けることを言い張ったのか、現在に至るまで論争がある。どちらにせよ皇帝はピエールに対し、民衆十字軍よりもはるかに精強なテュルク軍との交戦はしないよう、また西欧からの諸侯らによる十字軍本隊を待つよう警告したことが記録に残っている。
ピエールはゴーティエ指揮下のフランス人たちや同時期到着したイタリア人十字軍部隊と合流した。小アジアで一行は農村を襲いながらマルマラ海東奥のニコメディアの町に着いたが、ここで一行の中のドイツ人・イタリア人対フランス人の口論が起こった。ピエールの主導権は失われ、ドイツ人とイタリア人はフランス人たちから別れてレイナルド(Rainald)というイタリア人を新たな指導者に選び、一方フランス人らの指揮はジェフロワ・ビュレル(Geoffrey Burel)という人物がとった。
ピエールが皇帝から、諸侯らによる十字軍本隊を待つようにとの指図を受けていたにもかかわらず、ピエールの指導を離れた十字軍は諸侯らを待たずにばらばらになりながら小アジアを大胆に進んでゆき、ついにフランス人らはルーム・セルジューク朝の首都ニカイア付近に達し、近郊のギリシャ人やトルコ人の村を略奪した。一方ドイツ人ら6千人はニカイアの東へ歩いて4日のクセリゴルドンへと進撃して9月18日にこの町を陥落させ、周囲の略奪の拠点とした。
これに対し、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世は攻城戦のために軍を送り、9月21日から攻囲戦に入った。クセリゴルドンへの水の供給は絶たれ、十字軍の兵たちは喉の渇きでロバの血や自らの尿を飲むほどに苦しんでおり、9月29日にクセリゴルドンはあっけなく奪還された。捕虜となった兵らのうちイスラムへ改宗した者らはペルシャ東部のホラーサーンへ送られ、改宗を拒んだ残りは殺された。
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