東部戦線 (第一次世界大戦) 1914年

東部戦線 (第一次世界大戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/21 17:56 UTC 版)

1914年

軍議中のヒンデンブルクヴィルヘルム2世ルーデンドルフ(左から)
1914年、東部戦線。両軍の集中。

緒戦、東プロイセン方面

ドイツ軍の考えていたシュリーフェン・プランはロシア軍の動員の遅さを前提としていたが、この予想に反して8月中旬にはロシア軍は動員を完了した。8月17日、ロシア西北正面軍の第1軍はスワルキー地方から独領東プロイセンに進攻し、グンビンネン付近の独軍陣地を攻撃。同第2軍は8月19日ナレウ河谷英語版から東プロイセンに進入し、ドイツ国境守備隊を駆逐しつつ前進していた。

グンビンネンの戦いドイツ語版ロシア語版英語版の敗戦により新しくドイツ第8軍司令官となったヒンデンブルク大将はロシア第1軍、第2軍の不連携に乗じて各個撃破を計画した。すなわちロシア第1軍に対しては後備1個軍団及び騎兵1個師団のみをあてて防御し、グンビンネン付近にいた現役2個軍団を招致して主力をもってロシア第2軍を殲滅しようという案である。

ドイツ軍は2個軍団をもってタンネンベルク付近に陣地を構築し、グンビンネン付近から鉄道で移動した2個軍団を各1個軍団宛陣地の両翼に使用してロシア第2軍を包囲しようとした。ロシア第2軍は8月26日からタンネンベルク付近の陣地を攻撃していたがドイツ軍に包囲される。30日、ついに湖沼森林地域に追い詰められたロシア第2軍はほとんど殲滅された。

この間北方にいたロシア第1軍はアルレ湖畔に停止し、第2軍を救援するという積極的な行動を起こさなかった。ロシア第1軍がなぜ第2軍を助けなかったかについて、ソ連ゼンコウィチは「第1軍が第2軍に協力援助を与えなかった主要な原因は、正面軍司令部の誤った状況判断と時機を逸した命令部署に他ならない。そしてこれらは連絡と敵情偵察が不十分であった結果として起こったものである。」と述べている[17]

独ヒンデンブルク将軍はタンネンベルク勝利後、兵を北方を移動させ露第1軍を殲滅しようと決し第一次マズーリ湖攻勢を開始した。ドイツ軍は不意にロシア軍の左翼に出てこれを包囲しようとしたが、ロシア第1軍は第2軍と同じ失敗を恐れて自国内へと撤退した。

緒戦、東ガリツィア方面

対ロシア作戦のため使用されるオーストリア=ハンガリー帝国軍は8月20日おおむね動員を済ませ、オーストリア第3軍及びケーベス兵団を東方のロシア第3軍、第8軍にあてて主力はルブリンホルム方面から南下するロシア第5軍、第4軍に向かって前進させた。一方、ロシア軍主力の第3軍、第8軍は、リヴィウ[18]を目指して前進した。オーストリア、ロシア両軍の間で遭遇戦が発生したが、リヴィウ東方のオーストリア軍は優勢なロシア軍によって漸次西方に圧迫された。9月2日、オーストリア軍はついにガリツィア・ロドメリア王国ガリツィア)の首府レンベルク(リヴィウ)を放棄した。これにより北方オーストリア軍は主力方面から逐次戦力を東方に転用しなければならない状況に陥る。オーストリア軍は広正面に分散し、いたるところで戦力が脆弱となって次第に西方に退却した。

こののち、セルビア戦線英語版から招致した2個軍団の到着を待って、オーストリア軍は9月8日リヴィウ方面で攻勢に出た。激戦となったがオーストリア軍はロシア軍に右翼を包囲され、9月10日サン河の線に向かって退却した。ロシア軍は各方面からこれを追撃するとともにヴィスワ川ポーランド語: Wisłaドイツ語: Weichsel ヴァイクセル)河畔に集中していた第9軍をもってサン川両岸地区を南下させ、オーストリア軍の左翼を突こうとした。このためオーストリア軍はサン川の線にも停止することができず、多大な損害を被ってプシェムィシル要塞に約5万の兵を残して退却した。

ロシア軍はこれを追撃して8月22日約5個軍団でプシェムィシル要塞を包囲し、さらに要塞南北の地域からサン川西方に進出した。この追撃の途中、ロシア軍はドイツ軍がポーランド方面に兵力を集結させているのを知り、同24日第4軍を北方イヴァンゴロド方面に転用した。

10月以後、ポーランド方面

ロシア軍はガリツィアにおいてオーストリア軍主力を撃破して追撃中、ドイツ軍は9月中旬以後鉄道網を利用して大部隊をシュレジェン州に集中させようとしていた。ロシア軍はこれを察知してロシア第4軍をイヴァンゴロド方面のロシア第2軍左翼に転進させ、西南方面軍の主力はサン川左岸に進出した。 一方ドイツ軍は他方面から増援を得て東ポーランド方面で攻勢を計画。28日より行動を開始しピリッツァ河英語版以南の地区でロシア軍を突破しようとした。オーストリア軍も10月4日頃よりヴィスワ川上流右岸地区で前進を開始した。

ロシア軍はポーランド方面のドイツ軍に対し攻勢を決定したが、作戦は進展しなかった。ロシア軍はガリツィア方面の諸軍をサン川右岸に後退させてプシェムィシル要塞の包囲を解き、第5軍をルブリン付近に集結させてワルシャワ方面からドイツ軍左翼に向かって攻勢に転じた。そのためドイツ、オーストリア軍は左翼を包囲されて国境線に向かって退却。プシェムィシル要塞はまたもロシア軍に包囲された。

10月下旬、ドイツ軍は他方面より兵を送り、追撃前進中のロシア軍右翼に対し攻勢をとることを決定した。ロシア軍はドイツ軍の退却に乗じて西方と南方で追撃していたが、ロシア右翼軍がヴァルタ川の線に達するとともにドイツ軍は西部戦線からの増援を待たずにトルン付近に集結していた兵力で攻勢に転じた。ドイツ軍はロシア軍の右翼を圧迫してウッチ付近でロシア約4個軍団を包囲したが、ロシア増援軍に反対に包囲された。包囲されたドイツ軍は11月24日東方に向かってロシア軍戦線を突破して友軍に収容された。

ドイツ軍はウッチ会戦英語版が失敗すると中央方面でロシア軍配備が薄くなっていることを利用し、チェンストホヴァポーランド語: Częstochowaイディッシュ語: טשענסטעכאוו‎ チェンストホーフ)方面よりカリシュ付近に集結した約6個師団と西部戦線からトルン付近に輸送された約9個師団を加えて11月下旬からロシア軍を攻撃して、これを撃退した。


  1. ^ McRandle & Quirk 2006, p. 697.
  2. ^ "Sanitatsbericht fiber das Deutsche Heer... im Weltkriege 1914–1918", Bd. Ill, Berlin, 1934, S. 151. 149,418 casualties in 1914, 663,739 in 1915, 383,505 in 1916, 238,581 in 1917, 33,568 in 1918. Note: the document notes that records for some armies are incomplete.
  3. ^ Churchill, W. S. (1923–1931). The World Crisis (Odhams 1938 ed.). London: Thornton Butterworth. Page 558. Total German casualties for "Russia and all other fronts" (aside from the West) are given as 1,693,000 including 517,000 dead.
  4. ^ Bodart, Gaston: "Erforschung der Menschenverluste Österreich-Ungarns im Weltkriege 1914–1918", Austrian State Archive, War Archive Vienna, Manuscripts, History of the First World War, in general, A 91. Reports that 60% of Austro-Hungarian killed/wounded were incurred on the Eastern Front (including 312,531 out of 521,146 fatalities). While the casualty records are incomplete (Bodart on the same page estimates the missing war losses and gets a total figure of 1,213,368 deaths rather than 521,146), the proportions are accurate. 60% of casualties equates to 死者726,000 負傷者2,172,000
  5. ^ Volgyes, Ivan. (1973). "Hungarian Prisoners of War in Russia 1916–1919". Cahiers Du Monde Russe Et Soviétique, 14(1/2). Page 54. Gives the figure of 1,479,289 prisoners captured in the East, from the Austro-Hungarian Ministry of Defence archives.
  6. ^ Erickson, Edward J. Ordered to die : a history of the Ottoman army in the first World War, p. 147. Total casualties of 20,000 are given for the VI Army Corps in Romania.
  7. ^ Atlı, Altay (25 September 2008). "Campaigns, Galicia". turkesywar.com. Archived from the original on 20 July 2011. Total casualties of 25,000 are given for the XV Army Corps in Galicia.
  8. ^ Yanikdag, Yucel (2013). Healing the Nation: Prisoners of War, Medicine and Nationalism in Turkey, 1914–1939. Edinburgh: Edinburgh University Press. p. 18. ISBN 978-0-7486-6578-5. https://books.google.com/?id=ApYNvVsjamEC&pg=PA3 
  9. ^ Министерство на войната (1939), p. 677 (in Bulgarian)
  10. ^ Симеонов, Радослав, Величка Михайлова и Донка Василева. Добричката епопея. Историко-библиографски справочник, Добрич 2006, с. 181 (in Bulgarian
  11. ^ Кривошеев Г.Ф. Россия и СССР в войнах XX века. М., 2001 – Потери русской армии, табл. 52 Archived 2016-11-18 at the Wayback Machine., Krivosheeva, G.F. (2001). Rossiia i SSSR v voinakh XX veka : poteri vooruzhennykh sil : statisticheskoe issledovanie / pod obshchei redaktsiei. Moscow: OLMA-Press See Tables 52 & 56]. This total of 9,347,269 refers to Russian casualties on all fronts including the Balkans Campaign and the Caucasus Campaign; though the overwhelming majority of these would be suffered on the Eastern Front.
  12. ^ Scheidl, Franz J.: Die Kriegsgefangenschaft von den ältesten Zeiten bis zur Gegenwart, Berlin 1943, p. 97.
  13. ^ Cox, Michael; Ellis, John (2001). The World War I Databook: The Essential Facts and Figures for all the Combatants. London: Aurum Press.
  14. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Page 18 ISBN 978-5-93165-107-1.(Civilians killed on Eastern Front)
  15. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Page 51 ISBN 978-5-93165-107-1.
  16. ^ Erlikman, Vadim (2004). Poteri narodonaseleniia v XX veke : spravochnik. Moscow. Page 49 ISBN 978-5-93165-107-1.
  17. ^ リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈下〉』pp.342-343
  18. ^ レンベルクとも表記される。
  19. ^ 参謀本部編『大戦間に於ける英仏露連合作戦』pp.156-162
  20. ^ Nik Cornish. The Russian Army 1914-18 p.38
  21. ^ リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈上〉』p.399
  22. ^ Nik Cornish. The Russian Army and the First World War や『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・下』には戦備についてこうある。ルーマニア軍は火砲と弾薬の欠乏が甚だしく連合国にこれを注文していた。また重砲編成のためブカレスト要塞の兵備を撤したが、会戦ごとに砲弾の欠乏に見舞われた。機関銃は他国と比べて極めて少なく、砲兵も足りない。飛行隊はないも同然であった。弾薬は6週間分しかなく、国力に見合わぬ大型師団は鈍重だった。
  23. ^ リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈上〉』p.456
  1. ^ Of the 3,343,900 Russian troops captured, 1,269,000 were captured by the Austro-Hungarians, with around 2 million captured by the Germans.[12]





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