本光寺 (島原市) 本光寺 (島原市)の概要

本光寺 (島原市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/20 10:25 UTC 版)

本光寺
所在地 長崎県島原市本光寺町3380番地
山号 瑞雲山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
創建年 1623年(大永3年)
開山 希声英音大和尚
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沿革

瑞雲山本光寺は、深溝松平氏の出身地である三河国額田郡深溝村(現在の愛知県幸田町付近)にあったと伝えられています。

曹洞宗の開祖道元禅師より数えて15代目の希声英音大和尚(1469年~1535年)を開山として、また深溝城主松平忠定公を開基として字市場(その後、字天王山に移動)に創建されました。

創建後の本光寺は、松平家の菩提寺として、藩主の移封に伴う領地替えの際に必ず新任地に同道していました。             

変遷

場所的変遷を時代別に辿ってみると、四代家忠公が忍城主(埼玉県)となり易地された後、慶長17年(1612年)五代忠利公が吉田城(豊橋市)に移封され同地二連木(三ノ輪)に移転して深溝に残置した寺を末寺としました。 この時代より深溝の寺は源光寺(後に本光寺と改称)と称して封地における末寺となり、以後、寛永9年(1632年)に刈谷、慶安2年(1649年)に福知山、寛文9年(1669年)に島原、元禄2年(1747年)に宇都宮、安永3年(1774年)に島原と幾度か転地を繰り返しました。

最後の島原転地後、明治4年、深溝松平家が神式に改典した結果、広大な伽藍は一時的に藩校稽古館を引き継いで学校(本光寺学校)に転用されましたが、明治5年、本光寺31世維尹石厳大和尚の努力によって復旧を図り、島原城の北端に位置する末寺浄林寺を合併して、現在に至っています。    

寺史

瑞雲山本光寺は三河地方を中心にに三十七ヶ寺の末寺を持ち、本寺である三河泉龍院(末寺二百ヶ寺)・三河龍渓院(末寺五百ヶ寺)・駿河大洞院(末寺二三六九ヶ寺)・総持寺に、輪番として数年毎に赴任していました。

戦国末期に皇室より中本山の寺格を拝受し、また御朱印地としての徳川一門の寺院として、島原藩内僧禄司役寺の格式を持つ本光寺の住持が輪番に赴く際には、僧侶・藩士多数が同行し行列は華々しかったと伝えられています。その際、住持は島原藩から路費・住費として二百両を支給され、不足の折は百両を追給されたと記録されています。

本光寺の一般財政は、年間475石(朱印100石、祠堂米325石、地行50石)の俸禄で賄われていました。

歴代住職

 開山 希聲英音大和尚

 二世 華宗英香大和尚

 三世 海岩俊智大和尚

 四世 角翁香麟大和尚

 五世 快翁存幸大和尚

 六世 義岫恕孫大和尚

 七世 舟岫太呑大和尚

 八世 仙麟長膳大和尚

 九世 暉堂宋恵大和尚

 十世 愚渓膳哲大和尚

 十一世 一舩正易大和尚

 十二世 壺中 春大和尚

 十三世 悦堂恵禅大和尚

 十四世 覚圓 了大和尚

 十五世 慧亮 秀大和尚

 十六世 逸堂大超大和尚

 十七世 燈外義傳大和尚

 十八世 神鼎存秀大和尚

 十九世 鐵山伯英大和尚

 二十世 天梁泰堯大和尚

 二十一世 徳岩堯明大和尚

 二十二世 悦山泰重大和尚

 二十三世 大菴泰通大和尚

 二十四世 泰源魯山大和尚

 二十五世 祥岳麟瑞大和尚

 二十六世 大榮萬明大和尚

 二十七世 英山玄魯大和尚

 二十八世 朴道現成大和尚

 二十九世 祖考明道大和尚

 三十世  祖庭證道大和尚

 三十一世 維尹石厳大和尚

 三十二世 碧翁千厳大和尚

 三十三世 竺翁大仙大和尚

 三十四世 黙翁仙定大和尚

 三十五世 文翁秀賢大和尚

著作等

本光寺には、歴代住持の語録・著作・逸話が数多く残されていますが、その中でも特に有名なのが次の本光国師の話です。

『本光国師日記』(慶長十八年三月の頁) 文中に「家康に本光寺御目見仕候」と云う記述があり、城主忠利公と家康公のいざこざを板倉勝重と吉田本光寺八世仙麟長膳大和尚が一緒に調停した話が紹介されています。 調停した当事者の一人であった京都所司代板倉勝重は、若年の頃、本光寺四世角翁香麟大和尚の孫弟子となり、しかも宗哲と名乗り永安寺(現在の長円寺:本光寺末)の住持であった関係から、法類(弟弟子)からの強い要請と自らの本家筋である島原藩大老板倉家安泰の為に奔走し、松平家を紛争から救ったと伝えられています。

本光寺に関連する書籍類としては、以下のものが知られています。

『刈谷本光寺九世暉堂宋恵大和尚手写本』

『因果物語』(片仮名本)

江戸初期の仮名草子として知られている『因果物語』の中には、刈谷本光寺十世愚渓膳哲大和尚の事が紹介されています。

『正法眼蔵随聞記』(長円寺本)

長円寺本は、学界唯一の貴重本(岩波古典文学大系の底本)として、広く学究に愛され利用されています。

『家忠日記・忠利日記・藩日記』

島原藩の草創期における松平家・大老・本光寺の関係を克明に記録している日記類。三日と日を開けず頻繁に三者会談を行い藩政の課題を解決しようとしていた先人達の努力の跡を伺うことが出来ます。




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