慶天海孔晴 慶天海孔晴の概要

慶天海孔晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 14:54 UTC 版)

慶天海 孔晴
基礎情報
四股名 慶→慶天海
本名 慶 孔晴
愛称 ケイ
生年月日 (1990-03-10) 1990年3月10日(34歳)
出身 鹿児島県大島郡瀬戸内町
身長 177cm
体重 115kg
BMI 37.8
所属部屋 阿武松部屋
得意技 左四つ寄り下手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 東十両11枚目
生涯戦歴 336勝252敗78休(95場所)
データ
初土俵 2008年1月場所
引退 2024年1月場所
(番付上は2024年3月場所)
備考
2024年3月6日現在

人物

地元の奄美大島は「男子に生まれたらだれもが廻しを締める」ほど相撲が盛んな地域であり[1]、慶は3歳の頃から相撲を始めていた。幼少期より小柄であった慶は地元の古仁屋相撲クラブで「廻しを取ったらとにかく動きまくれ」という指導を受け、中学卒業まで日曜を除いて夕方5時から8時まで相撲クラブでの稽古に打ち込んでいた。[1]相撲の名門校の埼玉栄高校に相撲留学[注釈 1]するがこの時から右肩の脱臼癖に悩まされる。それでもレギュラー入りのチャンスがやってきた2年生の頃には「稽古を休むといつ降ろされるか分からないので、痛いのは黙っていた」と苦しみながら稽古に励み、その年度の全国高等学校相撲選手権大会直前に5番手としてレギュラー入りを果たした。[1]その大会の団体戦では先鋒を任されたが決勝トーナメント1回戦で今まで故障した経験の無かった左肩が外れてしまった。しかし当時の監督である山田道紀は「お前以外に誰がいるんだ」と励まし、決勝トーナメントではすべて大将戦で勝利を決める際どい戦いを見せて全国制覇を掴み取った。[1]高校卒業後に監督の薦めで阿武松部屋に入門し2008年(平成20年)1月場所で初土俵を踏む。名前が番付に載った同年3月場所では近畿大学出身の誉富士を下すなど好調なスタートを切り同年7月場所では三段目まで番付を上げたが、右肩の怪我の手術に踏み切り[1]7月場所と9月場所を全休する。序二段に下がった同年11月場所では序二段優勝を飾ったがその場所の決定戦で透川と取った際に左膝靱帯断裂の大怪我を負ったことで翌年の1月場所は全休。[1]しかし、同年3月場所から復帰してからは順調に番付を上げ、2010年(平成22年)7月場所では幕下に昇進。左膝靱帯を損傷してから1年は本人曰く「まともな稽古ができず片足だけで取っていた」ような状態であったものの徐々に最高位を上げ、体重が120kg程度まで増えたことで成績が一気に向上していった。2012年(平成24年)3月場所で幕下上位の東幕下7枚目まで番付を上げ、この場所は大阪入り直前にオーバーワークを原因とする右太もも肉離れを起こすアクシデントに見舞われた中で5勝2敗で勝ち越し。[1]同年5月場所[注釈 2]も関取との対戦もあったが4勝3敗と勝ち越し、翌7月場所も西幕下筆頭の地位で5勝2敗と勝ち越し、関取昇進を決める。新十両昇進と同時に、それまで本名のままであった四股名を「慶天海」と改めた。[3]四股名「慶天海」は高校時代の相撲部監督[注釈 3]が死去する前に遺言にしたものであり、慶はそれに従いこの四股名を名乗ることとした。本名の「慶」と奄美大島の空と海をイメージして「天」と「海」を合わせたものである[4]。同部屋の兄弟子である丹蔵も自身と共に新十両に昇進しており、同部屋から同時に新十両への昇進を果たすのは2010年3月場所での同じ阿武松部屋(大道と益荒海)以来のこととなった[5]

新十両であった2012年9月場所は、初日に黒海を破ったものの、2日目に德真鵬に敗れた際に膝を負傷し、3日目から途中休場。右膝前十字靱帯断裂(当初は靱帯損傷)と診断され同年10月に手術し、復帰には1年を要すると発表された[注釈 4][6]。その後は5場所連続全休し、序ノ口まで降下した2013年9月場所[7]で6場所ぶりに土俵に復帰して復活の全勝優勝を果たした[8][注釈 5]。直後の11月場所でも序二段で全勝優勝を果たした。2014年1月場所は4番相撲で敗れたことで復帰以来続いていた連勝が17で打ち止めとなったものの6番相撲で勝ち越しを確定させて5勝2敗で場所を終えた。翌3月場所で幕下に復帰して以降も勝ち越し続けると、2015年1月場所で関取復帰目前の東幕下2枚目まで番付を戻したが、十両復帰をかけた千秋楽の希善龍戦に敗れ、3勝4敗と復帰後初めての負け越しに終わる。その後も負け越しを続けて幕下下位に落ちた9月場所では5場所ぶりに勝ち越した。その後は幕下上位をうかがいつつも中位の番付に定着していたが、2016年9月場所は古傷のある右膝のクリーニング手術を受けて全休となった[9]

2018年1月場所は、奄美大島出身で同郷の力士である勝誠と取り直し2回の熱戦を繰り広げ、3回目の取組で勝利。これで勢いに乗ったのか、この場所は幕下では2014年5月場所以来の好成績となる6勝1敗[10]。同年9月場所では3年半ぶりに幕下の一桁台まで番付を戻したが、この場所は2勝5敗と負け越した。

2022年1月場所は、2016年11月場所以来30場所ぶりに三段目に陥落。同年7月場所で幕下に復帰したが、翌9月場所で再び三段目に陥落して以降、幕下に復帰することはできなかった。2024年1月場所限りで現役を引退し、同年3月6日に日本相撲協会から正式に発表された[11]

取り口など

小柄な体格を生かしたスピードや切れのある相撲を得意とする。ベースには奄美大島の"島相撲"があり、「相手の懐に潜って食いつく」と評されている。本人もこの取り口について「自分も気づいていたらあのような相撲を取っていた。指導者も皆、同じ相撲だから」と語っている。[1]因みに奄美市出身の里山も同様の取り口である。反面、無理な態勢からの投げや足技などがあり、大怪我も何度か引き起こしている。高校時代に左肩を負傷した影響で差し手を返す威力に欠け、相撲が長くなりがちである。[12]


注釈

  1. ^ 埼玉栄高校の1年先輩には常幸龍がいる。
  2. ^ この頃は若荒雄の付き人を務めていた。[2]
  3. ^ この人物は山田道紀の前任を務めた監督である。
  4. ^ 慶天海、前十字靱帯断裂で復帰まで1年 - スポーツ報知(電子版) 2012年9月21日閲覧
  5. ^ ちなみに同部屋の丹蔵も5場所連続全休の怪我を乗り越えて関取に昇進した経験の持ち主である。
  6. ^ 右膝前十字靱帯損傷のため、3日目から途中休場。
  7. ^ 場所前の3月6日に現役引退。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 『相撲』2012年4月号98頁
  2. ^ 『相撲』2012年5月号91頁
  3. ^ 新十両に山口改め大喜鵬ら=大相撲 時事ドットコム 2012-07-25閲覧
  4. ^ 「花の新十両データバンク」『相撲』2012年9月号、ベースボール・マガジン社、28頁。 
  5. ^ 阿武松部屋からW十両昇進 nikkansports.com 2012年7月25日18時7分
  6. ^ NHK大相撲中継9月場所4日目(2012年9月12日放映)の中入りには、怪我で途中休場した自身に代わって丹蔵が新十両インタビューを受けており、その際丹蔵は「慶天海関の分まで頑張ります」と発言していた。
  7. ^ 『相撲』2013年11月号71ページには「本当は7月場所から出ようと思ったけど、ストップがかかったので今場所からになった。」と話した様子が記述されている。
  8. ^ 【秋場所】35歳10か月の天一が三段目優勝 スポーツ報知(電子版) 2013年9月27日閲覧
  9. ^ ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2016年10月号(秋場所総決算号) 90頁
  10. ^ 『相撲』2018年3月号 p.76
  11. ^ 悲運の元十両・慶天海が引退 締め込みで土俵に上がったのは2日のみ…ケガに泣いた土俵人生」『スポニチアネックス』、2024年3月6日。2024年3月6日閲覧。
  12. ^ 阿武松おかみさんのブログ 新十両紹介・慶天海左肩の怪我を示す資料[リンク切れ]


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