後藤宙外
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文学者としての宙外
文学者としての宙外の活動は概ね、以下の3期に分けられる。
- 家庭小説『ありのすさび』で文壇デビューを果たしたのち、政治小説『腐肉団』発表するまでの1895年から1900年までの時期。この間、宙外は『闇のうつゝ』『誰が罪』『思ひざめ』などを発表して注目され、その一方で「新著月刊」を編集し、森鷗外との「性格論争」をふくむ活発な評論活動を展開した[17]。
- 春陽堂に入社後、猪苗代湖畔に暮らしながら創作活動をつづけ、編集に従事した1900年ごろから自然主義興隆の1907年ごろまで。この時期はいわば「硯友社の客将」とみなされ、泉鏡花、国木田独歩、徳田秋声らの作品を紹介する一方、薄田泣菫や正宗白鳥らの新人を発掘して「新小説」黄金時代をもたらした[17]。一方ではみずから晩年に著した『明治文壇回顧録』で述べるように「思想惑乱の時代」でもあって、創作上の限界を感じていた時期にあたる。東京専門学校時代からの学友で文学上のライバルでもあった島村抱月を強く意識した[17]。
- 反自然主義を唱えてから春陽堂退社までの1907年ごろから1910年暮れまでの時期。ヨーロッパ留学から帰国した抱月に対して羨望と劣等感を感じながら、性格の違いもあって硯友社文学の生き残りのような状況を呈していた。こののち小説は散発的にしか書かなくなり、春陽堂退社をもって事実上の文壇引退とみなすことができる[17]。
主な作品
- 『ありのすさび』 「早稲田文学」明治28年(1895年)5月 - 10月。
- 『闇のうつゝ/狂美人』 「新小説」第4号、明治30年(1897年)9月、春陽堂。
- 『腐肉団』 「時事新報」明治32年(1899年)6月 - 8月。明治33年(1900年)7月、春陽堂 刊。
- 『思ひざめ』 明治30年(1897年)12月、東華堂。
- 『新機軸』 明治31年(1898年)12月、春陽堂。
- 『非自然主義』 明治41年(1908年)9月、春陽堂。
- 『明治文壇回顧録』 「芸術殿」昭和8年(1933年) - 昭和10年(1935年)。昭和11年(1936年)5月、岡倉書房 刊。
脚注
注釈
- ^ 宙外の戸籍上の生年月日(慶応2年12月22日)をウィキペディア「慶応」に依って西暦換算すると、慶応2年12月1日はグレゴリオ暦1867年1月6日にあたるため、それに21を足して1月27日となる。
- ^ 「明治十九年に宙外が覚え書として書いている自叙略伝によれば(中略)慶応二年寅の十二月二十四日に生る故をもって通称虎之助と言う。(中略)とある。誕生日の日は戸籍には十二月二十二日とあり、また昭和十一年に史蹟保存の功労者として文部大臣から表彰を受けた時の履歴書には、自ら二十三日と書いているが、伝えるところでは家例の媒払いの日であったとか、すれば二十四日が正しいであろう。」(後藤 1967年、p.49)。
- ^ 後藤 1967年、p.49。
- ^ 日本近代文学大事典 1984、p.599。
- ^ 論文表題は「散文詩の精髄を論じて美妙、紅葉、露伴の三作家に及ぶ」(後藤 1967年、p.51)。のちに逍遙の推薦により、序論と美妙論を梗概化し、後半の紅葉、露伴論を中心に「美妙、紅葉、露伴の三作家を評す」として「早稲田文学」に掲載し、明治33年、『風雲集』(島村抱月、後藤宙外、伊原青々園 共著。春陽堂)に収録された(畑 1970、pp.25-26)。
- ^ 村松 1970、p.41。
- ^ 畑 1970年、p.33。
- ^ 「東京、浜松、宇都宮、宇治山田、三重、名古屋で講演会を催したりした」(村松 1970、p.41)。
- ^ 千葉 1980、p.63。
- ^ 千葉 1980、pp.127-132、後藤宙外年譜(後藤稜次郎 作成)。
- ^ 千葉 1980、p.99。実物図版。
出典
- ^ 後藤稜次郎「後藤宙外」(『あきた』通巻65号、秋田県広報協会発行、1967年10月1日)pp.49-53。
- ^ 井上隆明監修、塩谷順耳ほか編『秋田人名大事典』(第2版)秋田魁新報社、2000年、p.228頁。ISBN 4-87020-206-9。
- ^ a b c d e f “人・その思想と生涯(21)”. あきた(通巻65号) (1967年10月1日). 2021年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月2日閲覧。
- ^ 後藤稜次郎「後藤宙外」(『あきた』通巻65号、秋田県広報協会発行、1967年10月1日)p.49-53
- ^ 日本近代文学館編 編『日本近代文学大事典(机上版)』項目著者:畑実、1984年10月24日、pp.599-601頁。ISBN 4062009277。
- ^ 畑実「後藤宙外―その初期の一断面」(「駒澤大學文學部研究紀要」28、1970年)pp.24-34。
- ^ 村松定孝「〈資料〉泉鏡花逸文三篇」(「上智大学国文学論集」4、1970年)pp.40-57。
- ^ 後藤宙外「『新著月刊』発行とその環境」(「早稲田文学」240号、1926年1月。十川信介 編『明治文学回想集』(下)、岩波書店、1999年2月、pp.294-307)。ISBN 4003115821
- ^ 伊藤整「解題 後藤宙外」(『明治文学全集』第65巻、小杉天外・小栗風葉・後藤宙外集、筑摩書房、1968年)pp.419-421。ISBN 4480103651
- ^ 徳田秋声「予が半生の文壇生活」(「新潮」1912年1月号。『徳田秋聲全集』第19巻、八木書店、2000年11月、pp.269-274)。ISBN 4840697191
- ^ 『日本大百科全書』 第9巻、項目著者:畑実、小学館、1986年5月、p.437頁。ISBN 4095260092 。
- ^ 手塚昌行「文芸革新会をめぐる反自然主義思潮」(「明治大正文学研究」24、東京堂、1958年6月)pp.80-92。
- ^ 伊藤整『日本文壇史』14「反自然主義の人たち」講談社文芸文庫、1997年2月。pp.114-124。ISBN 4061975544
- ^ 千葉三郎 編『後藤宙外―目で見るその生涯』後藤宙外翁顕彰会、1980年10月。
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)142頁
- ^ 後藤稜次郎「後藤宙外」(『あきた』通巻65号、秋田県広報協会発行、1967年10月1日)pp.49-53
- ^ a b c d 千葉三郎「後藤宙外が文壇を退いた謎」野添憲治編『秋田県の不思議事典』pp.110-111、新人物往来社、2002年11月。
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