広安門事件 事件の影響

広安門事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 04:04 UTC 版)

事件の影響

この事件は、直前に起きた廊坊事件とともに中国側の規範意識の欠如と残酷な面を見せつけ、中国側に対して全く反省を期待できない不誠意の表れであり和平解決の望みが絶たれたと判断した日本軍支那駐屯軍は7月27日夜半[注釈 5]になって前日の通告[注釈 6]を取消し、改めて冀察政務委員会委員長であり、二十九軍軍長でもあった宋哲元に対し「協定履行の不誠意と屡次(るじ)の挑戦的行為とは、最早我軍の隠忍し能(あた)はざる所であり、就中(なかんずく)広安門に於ける欺瞞(ぎまん)行為は我軍を侮辱する甚(はなは)だしきものにして、断じて赦すべからざるものであるから、軍は茲(ここ)に独自の行動を執(と)る」ことを通告し、さらに北平城内の戦禍を避けるために中国側が全ての軍隊を城内から撤退させることを勧告した[2]

日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益とその居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同じ内容が内閣書記官長談として発表された[6]。駐屯軍は28日から北平周辺の中国軍に対し攻撃を開始し、天津方面では28日夜半から中国軍の攻撃が開始され、各方面で日本軍が勝利し2日間で中国軍の掃蕩が完了した。

7月29日には、在留日本人数百人が「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)に虐殺される通州事件が起き、日本世論は激昂することとなった。

脚注

参考文献

  • 陸軍省新聞班「朗坊事件以後」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年8月4日
  • 『〈戦史叢書〉支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』朝雲新聞社 1975年7月

関連項目


注釈

  1. ^ 南京政府直属の中央軍ではなかったため、中央軍に編入するように蒋介石が働きかけていた。
  2. ^ 支那駐屯歩兵第二連隊第二大隊[1]
  3. ^ 『戦史叢書』では先頭のトラック3両が通過したときに中国側の攻撃が開始されたとしている[1]
  4. ^ 『戦史叢書』では軍事顧問が中国軍の鎮撫に努めても聞かないため午後8時応戦を始めたとしている[1]
  5. ^ 『戦史叢書』では28日午前2時とされる[4]
  6. ^ 前日には廊坊事件への対応として第29軍各部隊の撤退を期限を付けて要求していた[5]

出典

  1. ^ a b c d e 戦史叢書 pp.216-217
  2. ^ a b c d 陸軍省新聞班 1937 p.6
  3. ^ 伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』吉川弘文館、2007年 ISBN 978-4642063326
  4. ^ 戦史叢書 p.225
  5. ^ 陸軍省新聞班 1937 pp.4-6
  6. ^ 陸軍省新聞班 1937 pp.7-8


「広安門事件」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「広安門事件」の関連用語

広安門事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



広安門事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの広安門事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS