広安門事件 事件概要

広安門事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 04:04 UTC 版)

事件概要

北平居留民保護の為に日本軍広部大隊[注釈 2]は26台のトラック[1]で北平城内の日本兵営に向かった[2]。事前に松井特務機関長が部隊の北平外城広安門(zh:廣安門)通過について、冀察政務委員会当局と交渉して秦徳純市長の承諾を得た上で、連絡の為に冀察政府軍事顧問桜井少佐が午後6時頃広安門に赴くと、門を警備していた中国軍が城門を閉鎖していたため、開門について交渉した結果午後7時半頃開門され部隊が門の通過を始めたが 、部隊の3分の2が通過した時に[注釈 3]突如門が閉ざされ、広部部隊を城門の内と外に分断した状態で不意に手榴弾と機関銃の猛射による攻撃を加えてきたため、広部部隊も[注釈 4]門の内外から応戦した[2]。中国側は兵力を増強して大隊を包囲し、一方豊台の河辺旅団長により午後9時半救援隊が派遣されたところで折衝により中国軍は離れた場所に集結し、広部部隊の内、城内に入ったものは城内公使館区域に向かい、城外に残されたものは豊台に向かうという案がまとめられ午後10時過ぎに停戦し、広部部隊は27日午前2時頃公使館区域の兵営に入った[1]。この戦闘における日本軍の死傷者の合計は19名で、その内訳は戦死が上等兵2、負傷が少佐1、大尉1、軍曹1、上等兵2、一等兵1、二等兵7、軍属2、新聞記者1であり、桜井顧問に同行した通訳1名も戦死している[2]

当時、既に中国軍は河北省南部の石家荘保定山西省大同に多数集結し、また豊台においては完全に日本軍を包囲しており、その一方で日本軍も新たに動員された関東軍朝鮮軍の部隊が北平・天津地区に到着しつつあり、両軍の間で緊迫の度が高まる中で起きた事件であった[3]


注釈

  1. ^ 南京政府直属の中央軍ではなかったため、中央軍に編入するように蒋介石が働きかけていた。
  2. ^ 支那駐屯歩兵第二連隊第二大隊[1]
  3. ^ 『戦史叢書』では先頭のトラック3両が通過したときに中国側の攻撃が開始されたとしている[1]
  4. ^ 『戦史叢書』では軍事顧問が中国軍の鎮撫に努めても聞かないため午後8時応戦を始めたとしている[1]
  5. ^ 『戦史叢書』では28日午前2時とされる[4]
  6. ^ 前日には廊坊事件への対応として第29軍各部隊の撤退を期限を付けて要求していた[5]

出典

  1. ^ a b c d e 戦史叢書 pp.216-217
  2. ^ a b c d 陸軍省新聞班 1937 p.6
  3. ^ 伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』吉川弘文館、2007年 ISBN 978-4642063326
  4. ^ 戦史叢書 p.225
  5. ^ 陸軍省新聞班 1937 pp.4-6
  6. ^ 陸軍省新聞班 1937 pp.7-8


「広安門事件」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「広安門事件」の関連用語

広安門事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



広安門事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの広安門事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS