山岳ベース事件 事件の原因

山岳ベース事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 22:44 UTC 版)

事件の原因

山岳ベース事件における大量殺人の原因については、様々な意見がある。

「共産主義化」

本事件において当事者たちが異口同音に証言するキーワードとして「共産主義化」がある。本事件における実質的な主導者であった連合赤軍最高幹部の森恒夫は、「銃による殲滅戦」(警官殺害・銃の強奪を目的とした交番襲撃)の遂行のため、「革命戦士の共産主義化」の必要性を説いた。「革命戦士の共産主義化」とは、赤軍派において1969年大菩薩峠事件における大量逮捕からの自供によるさらなる逮捕者が発生したことの総括として提示されていたものであった。

大菩薩峠事件当時に赤軍派に在籍していた当事者でもあった重信房子は大菩薩峠事件による大量逮捕により「共産主義化」が求められるようになった経緯について以下のように振り返っている。

赤軍派は「闘うこと」に純化して準備なく闘い、権力の弾圧にさらされた。当初から指導していた人たちがつぎつぎと逮捕され、軍事に一面化していくことで、戦闘団化し、権力の集中的な弾圧の中で解体していく根拠を、当初から形成していくことになった。これまでブントは「党」というよりも良くも悪くも学生運動の「大衆闘争の指導機関」の実態でしかなかった。しかしその実態を自覚し、大衆的でラジカルな多様な運動を求める道をとらなかった。武装闘争を担い、権力との攻防が先鋭化してはじめて、組織の質が問われたのである。思想的にも物質的にも、敵に打ち勝つ組織をどうつくるのか。それが、のちに赤軍派から「共産主義化」として連合赤軍へ引き継がれる内容でもあったと思う。

[246]

森はその時問われた「共産主義化」の実践のために革命左派が赤軍派との合流前から自然発生的に行っていた「自己批判-相互批判」の討論形式を取り入れたのだという[18]

森の「共産主義化」形成のイメージは新倉ベースで森自身が語った説明によれば以下のようになるという。

一二・一八上赤塚交番襲撃闘争(一九七〇年)は、敵との政治的な攻防関係が”殺すか殺されるか”にあることを突き出すとともに、殲滅戦に勝利するためには、まず銃による武装を勝ちとらなければならないことを明らかにした。

二・一七真岡銃奪取闘争(一九七一年)は、この一二・一八闘争の実践的総括として闘われたが、それによって、奪取された銃は、敵の集中的弾圧を引き出し、”殺すか殺されるか”の戦争状態を形成し、奪取した銃を守る闘いを要求した。

革命左派は山岳への撤退を通して、銃を守る闘いに挑戦してきた。

銃奪取闘争の実践的総括は銃による殲滅戦であるから、それは銃を握る主体の革命戦士化、即ち共産主義化を要求する。

革命左派は、山岳ベースでの自己批判と相互批判の討論を組織して、この課題に挑戦してきた。即ち、共産主義化の萌芽を闘いとってきた。

奪取した銃による殲滅戦は、その繰り返しによって味方の武装を発展させ、団結を強化する。それはやがてプロレタリアート独裁を樹立するであろう。それゆえに銃から国家権力が生まれるのだ。 — 森、[247]

後に連合赤軍幹部の吉野雅邦は森が言うところの「共産主義化」された兵士像を、「警官狙撃を何のためらいも畏怖感もなく、欲求として実行でき、非情なる殺人者となり、自らの死を恐れず、どんな苦難、苦境にも平然と耐え、乗り越え、全感情を革命戦争の遂行・勝利に服属させ、一切の非革命的心情を払拭しきった『悟り』に達した戦闘員といったもの」であったと推測している[179]

森は事件直後に書いた「自己批判書」において、「共産主義化」のための総括要求の論理を、

  • 短期間に個々人の内在的総括をなし切らねばならない
  • 暴力による指導、暴力による同志的援助が必要である
  • 総括し切れない者には、命がけの状況(ロープで柱に縛りつけ、食事も与えない)を強要して総括させ、決して甘やかしてはいけない
  • 縛られた者は、たとえ片腕を失くしても革命戦士になろうとする気概をもって総括すべきである
  • 縛られた者が総括し切るという事は0から100への一挙的な飛躍である

といった論理が次々と作られていったとしているが、森に準ずる形で事件を主導していた永田洋子をはじめとして多くのメンバーが森の理論を正確に理解できないまま事件に関わっていたことが彼らの手記から窺える。連合赤軍幹部の坂口弘は「森君の共産主義化の観念は、固定しておらず、総括の進行に伴い、さらに過激化していったため、一度、総括を認められれば、それで完了というようなものではなかった」とし、「終わりなき思想闘争、または思想改造であった」と回想している。また、坂口は控訴審の供述を前に森の「自己批判書」や遺書を分析するまで「共産主義化とはそもそも何なのか。実は、こんな初歩的問題ですら、事件から十二年も経つのに不明だったのである」と記し[248]、永田も「『共産主義化』という最も肝心な問題一つとっても、その必要性が強調されながら、一体それは何なのかを論じ合ったことは一度もなかった」[249]と記している。総括要求されたメンバーの中には、永田ら指導部メンバーや総括要求された当人すら何が問題とされているか分からない者もいたという。

坂口は事件当時の森の「認識」を以下のように解釈している。

総括を統一的連続的に捉えていた彼は、極左の絶対論理をつくる過程に登場し、連合赤軍に敵対すると見なした人達に行使すると宣言した暴力を、総括対象者に向け具体的に行使した。だが、この暴力は仲間に総括を促す手段であって、敵対分子に対する制裁ではないと、彼は認識していた。森君の際立った特徴は、行為と認識がつねに一致しておらず、分裂していたことである。(中略)彼は、自分の行為によってもたらされた客観的現実に己の認識を合わせるのではなく、反対に己の認識に客観的現実を合わせようとした。共産主義化に凝り固まった彼によれば、殴っても”援助”なのであり、殺害しても相手の”敗北死”なのである。そして、”私憤”で殴ったり、”反革命分子の死”だとか”殺した”とか言った者は、総括の趣旨を歪めたと見なし、摘発して総括にかけずにおれなかった。(中略) 極論すれば山岳ベース事件は、森恒夫の観念世界の中で起きた出来事なのであった。 — 坂口、[250]

連合赤軍被指導部の加藤倫教は後に総括討論の様子をこう振り返っている。

物言えばやられるのだが、物を言わないわけにはいかない。それもどのように言えば森や永田に認めてもらえるのか、誰にも分からなかった。何が基準なのか分からない「総括」要求と暴力に、森と永田以外の者は怯えていた。(中略)その恐怖心をかろうじて押さえ込んでいたものは、革命を実現するためには「銃による殲滅戦」を行なうしかないという信念、それだけだった。 — 加藤、[58]

連合赤軍被指導部の前澤はインタビューにおいて森らの追及の様子を聞かれてこう答えている。

「本人は闘えると思っているからやって来たんだから、『やります』とか答えるんだけど、そんなじゃ総括になってないと言われ続ける。具体的な問題を問うんではなくて、『あのときこう考えただろう』と訊かれて、実際はそうではないのに、何度も問われるうちに、『思ったかもしれない』とポロッと答えたら、『それがおまえの問題だ』と追及される。最終的にやってもないことを問題にされる」 — b、[118]

「連合赤軍事件の全体像を残す会」の会員として、事件の当事者との交流もある椎野礼仁は「完全な私見」として、事件の原因に連合赤軍がたまたま銃を大量に所持していたことを上げている。爆弾が「人が死ぬことの因果関係が蓋然的」で「投げれば、必ず人が死ぬわけではない」のに対し、銃は「引き金を引く時、必ず人は死ぬ、あるいは重傷を負わせることになる」ため、連合赤軍では「個人個人がその銃を撃つことができるのか」が問われ、それが共産主義化の論理と相まって悲劇に繋がっていったのではないかと指摘している[118]

永田らは裁判においても本事件がただの「リンチ殺人事件」や「内ゲバ事件」ではなく、「共産主義化の闘争」による「革命運動上の問題」であったことを裁判において訴え続けたが彼らの主張はほとんど認められなかった[251]

メンバーの多くが少なくとも事件当時は「銃による殲滅戦」とそのための「共産主義化」の必要性を感じていたことが各々の手記から窺える。総括対象に対する暴行も、「党の方針であるから」、「遅れている」自身を克服するため、あるいは「日和ってはいけない」との思いから加担していたという。暴行に対する疑問を抱いたメンバーも少なくなかったようであるが、異議を唱えることに対する恐怖や、「共産主義化というこの論理を僕らは突破するものを持っていなかった」(植垣)「よりよい方針が出せなかった」(前澤)[17]ため異議を唱えることができなかったのだという。

連合赤軍幹部の坂東國男は森を含む指導部が事件において「動揺」していたことを逮捕後の各々の手記で知ったといい、永田が自著『十六の墓標』で書いている「動揺」は事件時には気づかず、周囲には「動揺しない、感情のない鬼ババア」にしか見えなかったとし、「動揺」していた坂東自身もまた周囲には「鬼のように冷酷」に見えていただろうとしている。その上で全員が「動揺」していたのだから、誤りを修正する「真の革命の勇気」が必要であったとする。それができなかった原因に「指導者は優れていなければならない」という論理が虚勢を生み、本音を隠し、建前が横行し、失敗を他者(総括対象者)のせいにしていったことを上げている[8]

前澤は、指導部における森への反論の可能性について問われ、こう答えている。

「言えたのは、赤軍の幹部だったAぐらいだろうけど、彼は山に入る前のところで、一度組織を離れている。だから、それを森から突かれるんだよね。 坂口も『おかしい』と態度では示しているんだけど、どこがおかしいのか言葉にはできない。Aは言えるんだけど、日和っていた弱みを持っている。もともとは、森とAだと、Aのほうが赤軍の組織のなかでは上にいたんだけど、組織が大変なときに長期休暇をとっていたもんだから、立場が弱くなっていた。吉野は、行動力があって頑張るんだけど、論理は足りないというか。坂東は、森の用心棒みたいなやつだったし」 — 前澤、[118]

森は自死の直前にはこの「共産主義化の要求」自体を「ぼくの小ブル的人生観を恣意的に作り上げたものへの帰依の要求」[252]であり、「他の同志の階級性の解体の強要」[253]であったとして自己批判している。「総括」を要求されたのは、森自身が築き上げた「極左路線」「『銃—共産主義化』論」「独裁制」に疑問や反対した者であり、「過去の闘争の評価等をも含めてぼくの価値観への完全な同化を強要」した結果に「粛清」があったとしている[254]

D問題

多くの当事者の認識として、1971年12月初旬に行われた合同軍事演習における永田ら革命左派メンバーによる赤軍派のD批判が、総括要求の発端と位置付けられている。

合同軍事訓練において永田は森に対してDが合法時代と同じ指輪をしていたことを批判。髪型・装飾品・歩き方など、警察に覚えられやすい特徴は合法活動から非合法活動へ移る際に変えるべきだ[注釈 49]という主張によるものだった。これに対して森は「女性のことには気がつかなかった」と弁明するが、永田は「そんなの許されない」とし、森は了承した[255]。赤軍派では幹部の夫人は特別扱いされており、Dも当時獄中にいた幹部メンバーと内縁関係にあったため、森もDに指摘できずにいたとされる。

翌日になってもDが指輪をしていたのを見た永田は全体会議の場でDを批判。これに追随する形で他の革命左派メンバーもDを批判しはじめた。

Hやcら革命左派の女性メンバーも山岳ベース入山当時、永田に「あなたたち、なんでそんなに化粧に時間がかかるの?」「あなたたち、化粧を楽しんでいるのよ。自分が(異性の気を惹くように)きれいに見えるようにお化粧しているのよ」と批判されており、革命左派の女性メンバーによるD批判は永田により植えつけられていた「修養的な押し付け」も背景にあったという[179]

永田は男性中心の非合法活動に関わる中で、「女性としての生き方」を否定し、性差を超越し、自由恋愛を批判するに至ったといい、事件中の女性メンバーへの批判や恋愛にまつわるメンバーへの批判もそうした考えに立脚するものであったと主張している[256]。Dも以前は永田と同様の考えで闘争に関わっていたが、女性性を否定することは「中性の怪物」による「人間味のない政治」に繋がると考えるようになり、女性らしく生きる中で人間らしさを見出そうとしていたことを永田は逮捕後に知り、逮捕前の永田自身こそ「中性の怪物」であったと考えたという[257]

この革命左派メンバーによるD批判は赤軍派メンバーには何が問題とされているのかよくわからなかったといい[18][8][19]、革命左派メンバーの岩田も理解できなかったという[42]

また、この永田によるD批判は、森が革命左派のkの脱走問題・是政での大量逮捕問題・合同軍事訓練に水筒を持ってこなかったことを追及して合同軍事訓練を赤軍派先導で行おうとしたことに対する「反論」であったと、坂口[258]・植垣[259]・前澤[260]など多くのメンバーが位置づけている。裁判判決文においても永田がDの問題を取り上げたことを森の追及に対する「反撃」と表現されている[23]

裁判認定

1979年の石丸俊彦裁判長による判決文では、大量虐殺は「絶対的な権威と権力と地位を確保した森と永田が、その権威と権力と地位を維持確保せんとする権勢欲から、部下に対する不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心により」行われたとされた。1982年の中野武男裁判長による判決では本事件を森と永田の「恣意による私的制裁乃至は粛清」と位置づけ、事件の原因を森の「長たる器量」の欠如と永田の「個人的資質の欠陥」にあるとした。

メンバーの認識

本事件の実質的主導者であった森恒夫の認識は1973年1月の自死までの間に大きく変遷している。逮捕直後に書いた「自己批判書」において一切の責任は自身と永田にあるとし、「新党」と「共産主義化の要求」自体は肯定しながらも結果として多数の犠牲者が出た「方法の誤り」があったとした[18]。その後、「自己批判書」の内容を全面撤回し、D批判に端を発した「共産主義化の要求」が「革命左派の山での経験の絶対化であった」[261]として革命左派に事件の原因を求めるようになった。この「責任転嫁」を坂口弘や塩見孝也に批判され、自死の当日である1973年1月1日付坂東宛書簡では、革命左派の誤りを自身が純化させてしまった(革命左派内では適切な党運営により誤りが純化されることは無かった)のが原因だとしている[262]

連合赤軍幹部の永田洋子・坂口弘・坂東國男は、いずれも事件を主導したのは森だとしている。但し、森は権力欲から総括を行ったのではなく、自身の作った総括の理論にのめり込み、そこから抜け出せなくなったのだとしている。永田・坂口・坂東は、いずれもそれぞれの立場から石丸判決・中野判決を批判している。

一方で連合赤軍幹部の吉野雅邦は「悲劇の発端」に「『下部の離反、逃亡など、革命左派を統制できなくなった』永田洋子が、他組織の森恒夫の指導力に頼っていったこと」があるとし、「暴力的総括要求」は「共産主義化」などではなく、「内部統制のための暴力に他ならなかった」としている。その上で「永田は森と等しい役割を果たした」としながら、「組織内で脆弱な基盤しか持たなかった永田の『指導者としての不安心理』」に重きを置いて「永田個人の責任にすることはできない」としている[179]

事件の原因については、永田の他のメンバー(特に女性メンバー)に対する嫉妬が原因だとされることもある。連合赤軍被指導部の植垣康博は、当初そのような分析を行っていたが、永田にそうではないと指摘され取り下げている。前澤や加藤倫教は「そういう一面を持っていた」(前澤)、「嫉妬のようなものがなかったとは言い切れない」(加藤)としている[118]。女性メンバーdは永田とG・Hの関係について以下のように供述している。

一月中旬頃、永田は、「美人だとか、頭がいいとかいうことはブルジョワ性に傾きやすく、反革命につながる。私は美人も頭がいいのも嫌いなのよ」と言っていたことがあり、HもGも女性らしさや優しさのある人で、スタイルが良くて私たちの中では比較的美人で、しかも頭が良かったわけです。(中略)討論の際、永田はHやGに対し、「美人だと思っているでしょう。モテると思っているでしょう」などと批判していたこともあり、永田が嫌っていることは感じで分かっていました。 私は榛名アジトで生活し何人も同志が死んでいくのを見ているうちに、永田に嫌われないようにしようと考えるようになっていました。そのためには太ってスタイルが悪いこと、いつも元気にしていること、男のようになりふりかまわないこと、それが、嫌われないための条件だと考えていたのです。榛名山、迦葉山での生活で永田に嫌われることは、結局生きていけないことにつながっていたのです。 — d、[263]

永田自身はD・G・Hら女性メンバーへの追及について、自身が女性として男性中心の非合法活動を続けていく中で「女性としての生き方」を批判的に考えるようになっていったことが、「女性らしさ」を維持し続けようとしていたDらを批判することに繋がったとしている[256]

赤軍派と革命左派が両派の路線の違い(赤軍派は国際的に一斉蜂起し世界各国が同時に革命を起こすという世界同時革命論、革命左派は毛沢東思想に基づき日本単独で革命を成し遂げようとする「反米愛国」を掲げていた)を無視して野合したことに事件の原因を求める意見もある(植垣『兵士たちの連合赤軍』など)。これに対して坂東は、両派の路線は内実をなしていなかったとしている[8]

脱走した4名の内、岩田は「仲間が次々に死んで行く状況の中でこういう革命に自分がついて行けるかどうか疑問を感じた」、前澤は「逃走したのは粛清をやりたくなかったから」と供述している。一方、逃亡しなかった被指導部メンバーの中で青砥は1972年1月上旬に森の指示で上京した際に山に戻るかを考えた際、「Eが生きているうちに山に戻りたい」と思った[注釈 50]ことや、山岳調査や活動が本格的に始まりつつあったためこれ以上仲間が死ぬことはないだろうと考えたこと、死亡した者に対する責任も感じて脱走を思いとどまったことを供述している。cは逃げたいという気持ちや逃げる素振りを見せたら総括要求される、たとえ逃げても捕まって殺されるという恐怖があったという。一方で、たとえ逃げても組織から離れて活動することを考えることができず、「結局この場に残って闘うしかない」と考えるに至ったという。gは「山から降りるのが一番賢明な手段」と考えていたものの「山から降りる」ことは死亡した仲間に対して「申し訳ないというか卑怯なことだと思っていた」という[23]

加藤倫教は「あのとき、誰かが声をあげさえすれば、あれほど多くのメンバーが死ぬことはなかった」「しかし、私にはそれができなかった。それよりも「革命」という目標を優先し、それに執着してしまったのだ」と述べている[58]

前澤は「主観的な行動とうすうす感じつつも武装闘争に殉じたいと思い、それを達成させるための「粛清」を違和感を感じつつも受け入れてしまった(原文ママ)」「仲間を殺すことに耐えられなくなった時、私は脱落した」と述べている[264]

本事件に関しては、1987年に「連合赤軍事件の全体像を残す会」が元革命左派メンバーや元赤軍派メンバーが中心となって結成され、事件を後世に伝えること、犠牲者の追悼、そして事件の「総括」をすることを目的として、当事者の証言を集める活動やシンポジウム等が定期的に行なわれている。懲役を終えて出所した事件当事者である植垣や青砥・前澤らも活動に参加して各所で事件当時のことを証言している。その一方で未だに事件当時のことを語りたがらないメンバーも多くいるという。


注釈

  1. ^ 「日本共産党」を冠してはいるが日本共産党とは無関係。
  2. ^ 当時、この事件は両派幹部内での秘密であったが、革命左派の被指導メンバーには「処刑」に感づいていた者がいたとされている。
  3. ^ メンバーの一人は暴行を加える際に「俺のことを小ブル主義者と呼んだだろ」と口走ったことで、個人的な怨みで暴行を行っているとされ、総括要求された。
  4. ^ 第一審判決の判決文では事件中の1971年12月〜1972年2月の気温として榛名ベース付近では「最低気温は殆ど連日零度を下回って中には氷点下九度にも達し」、迦葉ベース付近では「朝八時の気温は連日零度以下が多く、時に氷点下一一度にも達し」、妙義山ベース付近では「零度以下の日がかなりあった」ことが観測されていると指摘されている。
  5. ^ 脱走したメンバー4名も1972年3月中に全員警察に出頭・逮捕された。
  6. ^ 上赤塚交番襲撃事件で死亡した柴野春彦。
  7. ^ 山岳ベースのこと。
  8. ^ 逮捕されたメンバーの支援等を行う組織。当初Hは当時逮捕されていた吉野の支援のため革命左派に関わり始めた。
  9. ^ 1971年2月の真岡銃砲店襲撃事件により永田や坂口・吉野・Fらが指名手配され、彼らは札幌での潜伏生活を余儀なくされていた。翌3月、永田は日本国内では銃の訓練も出来ないとして中国に拠点を作って日本へ再来日する方針を打ち出した。札幌潜伏メンバーは当初は反対したが永田がこの方針を改めようとしなかったため渋々合意したものの、この時都内にいたHら当時の合法部メンバーが反対して実現に至らなかった。4月に他の潜伏メンバーに先んじて再上京した永田と坂口は都内の赤軍派のアジトやシンパの家を警察の目を気にしながら転々とする中で消耗し、人里離れた山岳にアジト(山岳ベース)を作るという案を坂口が提案したことにより「根拠地問題」は解決した。
  10. ^ 元赤軍派メンバーの証言によれば、合法部時代のDは元々質素な格好をしており、それが入山前のDに会った際にいままでしていなかった化粧をするなど見た目に大きな変化があったという。彼はこのことからDの山での派手な身なりは「彼女なりの偽装」だったのではないかと指摘している。[17]
  11. ^ 京浜安保共闘と革命戦線はそれぞれ革命左派と赤軍派のデモや勧誘活動などの合法活動を行う組織で、永田や森らが所属する非合法部隊である「軍」とは切り離されていた。ここで「革命左派と赤軍派」とされたことは軍部も含めた主催ということになり、これを独断で決められたことは彼らにとっては重大な問題であった。
  12. ^ 赤軍派は国際的に一斉蜂起し世界各国が同時に革命を起こすという世界同時革命論、革命左派は毛沢東思想に基づき一国だけでも革命を成し遂げられるという一国革命論を主張しており、根本的な路線の齟齬が多かった。合同軍事訓練前の両派の会議においてもその点が触れられていたが結論は出ていなかった。とりわけ革命左派が一国革命論に基づいて掲げていた「反米愛国」の思想に森は強く否定的だったとされる。
  13. ^ 森・永田・坂口・F・吉野・坂東による指導部会議メンバーの中で唯一の独身メンバーだった。
  14. ^ 岩田によると、永田や坂口の指導に疑問を持ち始めていた岩田が中心となって書き、Gが添削して完成したものだったという。これにIとdが同意の意を示したが、前澤とfの「乱入」により非合法部に不満を募らせた合法部メンバーの合意は取り付けられなかったという。[42]
  15. ^ 吉野は「逮捕後知ったこと」として、Iは完全に合法メンバーの意見に賛同し、「弟らを取り戻す」とさえ語って山に戻っていたことを明かしている[43]
  16. ^ 森による造語。坂口によると「指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導性を重視するもの」。[44]
  17. ^ 坂口によれば「反対派との暴力的党派闘争を徹底的に行うべきだった」という考えだという[46]
  18. ^ 永田の証言では、JにIから夜な夜な変なことをされると訴えられたとある[59]。森は以前の2人の接吻についてJが「そうされた」とした、としている。
  19. ^ 永田はIを縛るよう指示したのは自分ではないと否定。
  20. ^ 森はそれが具体的にどういうことかは説明しなかった[77]
  21. ^ 坂口の手記では「手が腐らないか?」と心配した森に対して永田が「腕の一本や二本切り落とすことになっても、革命戦士になれればいいのよ」と言ったとされている[81]
  22. ^ 吉野、F、k、J、G、H、c
  23. ^ 赤軍派創設時からのメンバーで、森と反目し合う形で中東に渡り、後に日本赤軍を結成。
  24. ^ 永田と坂口を党の責任者から外し、永田を機関紙編集専従、坂口を合法部統括、F自身を軍の委員長と党の責任者にするというもの。永田に反論されすぐに撤回した。
  25. ^ 警察・政府などの「国家権力」のこと。
  26. ^ Fが「寝ることを夢想する」相手として最初にGの名を挙げ、それに反発したことを指すと思われる。
  27. ^ 坂口と青砥以外の証言では森が刺したことになっているが、坂口と青砥によれば最初にCの胸を刺したのは坂口であるという。後の裁判においても、Cの胸を最初に刺した人物を坂口と証言したのは坂口自身と青砥のみで、他の当事者は森が刺したと証言したという。坂口自身も一審では自身が刺したことを否定していたが、控訴審から認める証言をしたが、第一審も控訴審でもCの胸を最初に刺したのは森とされている。坂口によればCの絶命後に永田が坂口に「よくやったわねぇ」と言ったという。[81]
  28. ^ LはCの「処刑」の際足を押さえていた。
  29. ^ Gはこの接触の際のnの言動から警察へのベース発覚を危惧し、永田にnの言動を「共通の友人から聞いた話」として報告しnの殺害を提起した。
  30. ^ Hの子供を取り出す計画が書かれており、これを読んだ坂口は絶句し、子供の父親である吉野には見せずに燃やしてしまったという[46]
  31. ^ Aは元々赤軍派の政治局員で赤軍派における当初の立場は森より上であった。その後逮捕・釈放を経て、組織をしばらく離れた後、1971年の秋に「一兵卒からやり直す」として赤軍派に復帰した。
  32. ^ Lが妻であるhとともに山岳ベースに連れてきていた乳児。L夫妻は本事件が進行していく過程でこの子供との接触を制限されていたという。
  33. ^ 実際にAを再び縛ったのは坂東ではなかったが坂口は「坂東が縛ったようなもの」と考えこう答えたという[81]
  34. ^ 坂口たちは森と永田が妙義ベースに向かっていたことを知らなかった。
  35. ^ この時坂口たちは警察官に「アベックを見かけませんでしたか?」と尋ねられたが、森と永田の逮捕を報じるラジオのニュースを聞くまでその「アベック」が森と永田を指すことに気がつかなかった[46]
  36. ^ 加藤倫教の手記では坂口による森と永田の結婚に関する言及があったのは坂口が永田との離婚を受けて妙義ベースに戻った時とされている。加藤の手記ではこの時に坂口が「自分は辛いが運動の発展のために受け入れる」と発言したとされる[58]
  37. ^ 坂口はこの一件を「山岳ベースで闘争意欲を失っていた吉野」、「傷つきながらも闘争意欲はあった坂口」、「そもそも傷ついていなかった坂東」の意識の違いによるものと後に分析している。[209]
  38. ^ 最高指導者である川島豪が掲げた革命左派の中核となる思想。
  39. ^ 上赤塚交番襲撃事件真岡銃砲店襲撃事件は獄中にいた川島の奪還指示に従って起こされた事件で、これにより永田らは指名手配され、山岳ベースを拠点とするに至った。
  40. ^ 1971年11月に森ら赤軍派中央部がPFLPを一方的に批判してきたことをきっかけに訣別していた[224]
  41. ^ 森が統一公判参加を一方的に呼びかけた青砥ら連合赤軍メンバー
  42. ^ Aの妻
  43. ^ 統一公判への合流を希望していた加藤倫教であったが、一度却下され、この時は参加できなかった。加藤が「統一公判でなければ出廷しない」と通告したこともあり、1974年5月より統一公判に合流することとなった。[58]
  44. ^ 公判中の長期間に渡って頭痛をはじめとする症状を訴えてきた永田は、その後松果体部腫瘍による脳圧亢進症が発覚し1984年7月にシャント手術を受けている。
  45. ^ 森と永田。同判決では「総括の恐怖におののき、ひたすら恭順の意を示して命令に盲従していた」のは「坂口すら例外ではなあり得なかった」としている。
  46. ^ 吉野と加藤倫教
  47. ^ 証言にはBの本名が入る。
  48. ^ iは事件当時16歳の少年だった。
  49. ^ 赤軍派出身で日本赤軍を結成しDの親友でもあった重信房子は、潜伏先の大阪で別の視察対象者を尾行していた公安警察に目撃されたタバコの吸い方の癖をきっかけに身元が割れ、2000年に逮捕された。
  50. ^ Eは青砥が上京した翌日に死亡。青砥はEの死を知らないまま1月中旬に榛名ベースに戻った。

出典

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