寒河尼 寒河尼の概要

寒河尼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/30 07:19 UTC 版)

寒川郡の他にも地頭として補任された地である阿志土郷(小山市網戸)から網戸尼(あじとに)とも称された[1]

生涯

宇都宮氏小田氏の祖、八田宗綱の娘で京都で生まれたと思われる。女房として近衛天皇に仕えた経歴をもっていたという(『老士雑談』)。頼朝の乳母の一人となり、やがて小山政光の後妻となったと考えられている。

治承4年(1180年)8月の頼朝による反平家の挙兵時、大番役で当主政光が在京中であったため、同年10月、寒河尼は当時14歳の末子(朝光)を伴って武蔵国隅田宿の頼朝の宿所を訪れた。尼は頼朝と往事を語り、末子を側近として奉公させたいと願い、頼朝は自ら烏帽子親となって元服させ、末子は小山七郎宗朝と名乗った(のちに朝光に改名)。夫の不在中は妻がその権限を取り仕切るのが慣習であり、この尼の行動によって下野国最大の武士団小山氏が頼朝方についたことになり、このことは北坂東の武士団の去就に決定的な影響を与えたものと見られる。寿永2年(1183年)2月、頼朝方は野木宮合戦で勝利する。

文治3年(1187年)12月、寒河尼は頼朝から、「これ女性なりと雖も大功有るやに依り」として、下野国寒川郡ならびに網戸(阿志土)郷の地頭職に任ぜられた[2][3]。両地域は小山に隣接しているものの、これ以前に小山氏が支配していたことを裏付ける証拠がないことと、単なる所領安堵では「大功」に相応しくないことから、新恩による所領であったと考えられている[1]

安貞2年(1228年)91歳で永眠。墓所は称念寺(小山市網戸)[1][3]

脚注

[脚注の使い方]

参考文献

関連項目


  1. ^ a b c 『郷土史事典 栃木県』
  2. ^ 荒川 2012, pp. 60–61.
  3. ^ a b とちぎのあらまし|人物「江戸時代以前」寒河尼”. 栃木県庁. 2022年12月30日閲覧。


「寒河尼」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「寒河尼」の関連用語

寒河尼のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



寒河尼のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの寒河尼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS