宋弘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 23:21 UTC 版)
子弟・一族
宋弘の弟の宋嵩は剛直な性格で知られ、官職は河南尹に至った。宋嵩の子の宋由は官職は太尉に至ったが、ときの権力者竇憲に接近しすぎたため、竇憲の失脚に際して官職を奪われ、故郷に追放され自殺に追いこまれた。宋由には宋漢・宋登の2人の息子がいた。宋漢は文武の才能に優れ、地方の総督や軍隊の司令官を歴任した。宋漢の息子が宋則である。あるとき、宋則の10歳になる息子が、奴隷に弦を引かせて弩を射ようとしたが、どういうわけか弦が切れ、暴発した矢が当たった子どもは即死してしまった。奴隷は償いのために死にたいと申し出たが、宋則は事情を察して奴隷を許してやり、人々はその心根に感服したという。宋登には著書「儒林伝」がある。
参考文献
- なお、この「宋弘」の記事はほとんど「後漢書宋弘伝」の抄訳である。
- 同本紀1上光武帝紀上
関連記事
- ^ 宋弘を前にしてその場で言ったという解釈と宋弘を退出させてから言ったという解釈とがある。
- ^ 軽薄でみだらな俗曲のこと。「論語」陽貨第十七の18「悪鄭声之乱雅楽也(鄭声の雅楽を乱すを悪む(にくむ))」衛霊公第十五の11「放鄭聲、遠佞人、鄭聲淫、佞人殆(鄭声を放ち、佞人を遠ざく。鄭声は淫にして、佞人は殆うし(あやうし))」に基づく。なお、孔子は、鄭の国の音楽が前衛的・先進的で、周の最盛期に演奏されていた伝統的な音楽とは異なることを嫌っていたのであり、実際に鄭の国の風俗が乱れていたわけではない。また、ここで言う「音楽」とは、宗教的な祭典や朝廷の儀式で演奏するもので、イメージとしては「雅楽」に近い。
- ^ 孔子が「異性に対する関心と同等以上の情熱で修養に励む者はいないものだ」と嘆いたことば(衛霊公第十五の12及び子罕第九の17)。
- ^ 「正しいことを聞けばすぐに従う」
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