孝昭帝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/21 01:57 UTC 版)
子孫
上記の様に7男1女がいるが、孫は高白沢(高亮の子)・高氏(高彦理の娘)の2人のみである。
高白沢は子を残さないまま殺された高百年の跡を継ぎ、楽陵王の爵位を継承した。北斉滅亡後、高白沢は蜀に流刑に処され、そこで死去した。子女は確認できない。
高彦理の娘は北周の第4代皇帝宇文贇(宣帝)の側室の一人となっているが、子女はいない。なお、娘が宣帝の後宮に入ったことにより、高彦理は北斉滅亡後の粛清を免れ、隋の開皇年間に死去している。
高彦徳・高彦基・高彦康・高彦忠の4人に妻子及び子孫の記録はない。
伝記史料
脚注
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- ^ 『北斉書』巻6 本紀6 孝昭帝本紀「魏元象元年,封常山郡公。」
- ^ 『北斉書』巻5 本紀5 廃帝本紀「因謂孝昭帝曰:「奪但奪,慎勿殺也。」」
- ^ 『北斉書』巻14 列伝6 高元海伝「孝昭幸晋陽,武成居守,元海以散騎常侍留典機密。初孝昭之誅楊愔等,謂武成云「事成以爾為皇太弟」。」
- ^ 『北斉書』巻6 本紀6 孝昭帝本紀「皇建元年八月壬午,皇帝即位於晋陽宣徳殿。」
- ^ 『北斉書』巻6 本紀6 孝昭帝本紀「武成鎮鄴,望気者云鄴城有天子気。」
- ^ 『北斉書』巻6 本紀6 孝昭帝本紀「帝常恐済南(高殷)復興,乃密行鳩毒,済南不従,乃扼而殺之。後頗愧悔。」
- ^ 『北斉書』巻6 本紀6 孝昭帝本紀「太后視疾,問済南(高殷)所在者三,帝不對。太后怒曰:「殺之耶?不用吾言,死其宜矣!」」
- ^ 『大唐帝国 中国の中世』 中公文庫 ISBN 4122015464、314-315p
- ^ 『建昌長公主高善徳墓志』
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