大関 陥落・大関特例復帰

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大関

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/02 10:20 UTC 版)

陥落・大関特例復帰

江戸時代には大関に在位した力士が翌場所に平幕以下に陥落した例も存在したが、当時は現在とは全く違う基準で番付を作成していたため参考にはしにくい。看板大関の制度が存在した時代の番付は必ずしも実力本位のものではなく、また看板大関がそもそも一時的な大関といった扱いのため、実力が大関相応とされる力士が現れた際には地位を明け渡すことが前提であった。看板大関廃止後は実力本位で番付を作成するようになったが、それ以降にも明治時代までは大関に在位した力士が翌場所に平幕へ陥落した例が存在する(最も新しい例は1900年(明治33年)5月場所の鳳凰馬五郎)。明治時代もまだ番付編成は現在と大きく異なっており、一ノ矢藤太郎大碇紋太郎のように勝ち越していながら降格となった者も存在した。その後も大正時代までは1場所で大関から即陥落も制度上存在し、実際に1場所で降格となった力士も存在する。大関陥落については江戸時代以来長らく明確な基準が無く、特に地位を保証されてはいなかったため、関脇以下の力士との兼ね合いでは大関の勝ち越し降格も当時の感覚では不自然なことではなかった[11]

1927年の東京相撲と大坂相撲の合併以来の諸制度の確定の中で大関の地位が確立し、「2場所連続負け越しで陥落」の基準が定着した(ただし、1929年〈昭和4年〉から1932年〈昭和7年〉までの2場所通算成績などで番付を編成していた時代には、必ずしもこの限りではない)。なお、戦前までは大関からの陥落は必ず関脇になるとは限らず、小結まで落とされた例も存在する。また昭和以降大関の力士で陥落したのちに、大関へ復活を果たしたのは、汐ノ海が最初のケースとなった。1958年(昭和33年)に、年間6場所制度が実施されたときには、2場所では厳しすぎるとして、3場所連続の負け越しで関脇に陥落と改定された。ところが、今度は甘すぎるとする批判が相次ぎ、1969年(昭和44年)7月場所より現行の「2場所連続負け越しで関脇に陥落、直後の場所で(取り組み日数による現行の規定で)10勝以上を挙げた場合は特例で復帰できる」とする規定が定着した[12]。尚、大関の地位で2場所連続で負け越し、翌場所の関脇陥落が確定している力士も、翌場所の番付発表の前日までは大関としての待遇を受けられる。

かつては、関脇以下へ陥落した元大関が現役を続行する場合、十両への陥落確定を機に引退することが慣例とされ、そもそも大関在位中に引退するケースが大半だった。 事実、昭和時代に大関陥落後に十両に陥落しても尚現役を続行した力士は大受のみであった。しかし平成時代以降、この慣例は形骸化され、雅山・把瑠都(番付のみ)・照ノ富士の3人が大関陥落後に十両以下の地位に在位した。

  • 大受は陥落直後の1977年5月場所(西十両筆頭)で幕内復帰を目指したが、初日から3連敗(4敗目は不戦敗)を喫して途中休場、その後同5月場所中の年寄名跡を取得を理由に現役引退を表明。
  • 雅山は大関経験者では史上初となる2度の十両陥落を喫した。雅山の1度目転落時の2010年9月場所(東十両2枚目)は、前7月場所(西前頭5枚目)に「大相撲野球賭博問題」の処分で同場所全休処分を下された結果だったが、12勝3敗の好成績を挙げ一場所で翌9月場所に幕内復帰を果たす。2度目転落時の2013年3月場所(東十両9枚目)は、前1月場所で幕尻(東前頭16枚目)の地位で3勝12敗と大敗したが、これは明らかな体力の衰えからだった。十両に下がった3月場所は同じく3勝12敗の大敗を喫して幕下陥落が濃厚となり、引退した[13]
  • 把瑠都は2013年9月場所(東十両3枚目)の番付発表後、左膝など怪我が完治しないことを理由に、同9月場所初日直前に引退を発表した。
  • 照ノ富士は2018年3月場所、西十両5枚目で6勝9敗と負け越し。東十両8枚目で迎えた翌5月場所は0勝9敗6休[14]と、幕下陥落相当の成績に終わったものの、当場所の千秋楽後、自身も・師匠(伊勢ヶ濱)も引退を否定し、番付編成会議前に引退届を提出しなかったため、翌7月場所では、1925年に日本相撲協会が発足して以降の大関経験者として初めて幕下(東幕下6枚目)に陥落した。さらに、7月場所も6月に両膝の手術を受けて入院加療中であることを理由に全休[15]、その後も全休が続き、9月場所で東幕下47枚目、11月場所で西三段目27枚目、2019年1月場所では西三段目88枚目、そして3月場所では西序二段48枚目と、元大関の最低地位を更新し続けた。同場所で5場所ぶりに土俵に復帰、7戦全勝を果たした(優勝決定戦で狼雅に敗退)。



  1. ^ ただし、紫馬簾は関脇以下でも、横綱の太刀持ち・露払いを務める者は例外的に使用が可能。また、大関を陥落した者も引き続き使える。
  2. ^ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第12条
  3. ^ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第5条
  4. ^ 雅山の場合、所属する武蔵川部屋は当時横綱・武蔵丸、大関・出島と武双山がいた。この三力士と対戦しないことから、大関昇進を決める番付編成会議の段階では相当慎重な意見が出ていた。これまで唯一話し合いでは結論が出ず、多数決(賛成7名・反対3名)により大関昇進が決定した。
  5. ^ 大関昇進力士・昇進直前3場所の成績(大相撲海峡部屋)
  6. ^ 「相撲」2012年1月号
  7. ^ 稀勢の里が大関へ!基準満たさずとも大関昇進の裏事情(リアルライブ
  8. ^ 照ノ富士が白鵬自滅でたなぼたの優勝 またも“時期尚早”の大関誕生へ(リアルライブ)
  9. ^ 照ノ富士の大関昇進に賛否も関脇優勝なら「妥当」大相撲裏話(日刊スポーツ)2015年5月29日1時5分
  10. ^ ただし、北尾(東前頭筆頭・12勝(優勝次点)-西関脇・11勝-東関脇・12勝(次点))・朝潮(東前頭筆頭・9勝-西関脇・14勝(優勝同点)-東関脇・12勝(優勝次点))共に、直前3場所の成績は合計35勝。
  11. ^ 初代國技館完成後の東西制やそれ以前の東西対戦の時代には勝ち越せば番付が上がる体系ではなく、同じ側にいる他の力士との比較、あるいは東西を配置換えになる力士がいた場合はその力士の成績も加味して総合的に決めていた。
  12. ^ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第9条
  13. ^ 生き残りかける名2力士 幕内最下位・雅山と十両尻・高見盛
  14. ^ 照ノ富士の2018年5月場所は左膝の怪我により4日目から途中休場、11日目から再出場。
  15. ^ 幕下転落の照ノ富士が全休、6月に膝手術し現在入院 - 日刊スポーツ 2018年7月8日
  16. ^ 若羽黒は借金で年寄名跡を取得できず、琴光喜は野球賭博で解雇、エストニア出身の把瑠都は日本国籍を取得しなかったため。
  17. ^ 『相撲』2012年5月号37頁には「さすがに協会も『7大関』は作らないだろう」と記述されており、現在の感覚では番付編成上「大関は最多でも6人が限界」という見解が示されていると言える。


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