大関 大関の概要

大関

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/02 10:20 UTC 版)

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概要

「大関取」が語源とされ、明治中期までは力士の最高位であった。本来「三役(力士)」とは「大関・関脇小結」を指し、大関は三役の最上位であるが、制度上の特権も多く、関脇や小結とは区別して扱われることが多い。本場所では幕内力士として15日間毎日取組が組まれる。

江戸時代の大相撲初期からある地位であり、必ず最低2名(東西1名ずつ)はおかれなければならない。江戸時代には大関に適した者がいない場合など看板大関といって、ただ大きくて見栄えがするというだけの理由で名前だけの大関にしたケースが多かった。その後、大関の上にさらに地位として付け加えられた横綱と共に、その地位(昇進および陥落)を厳密に管理されるようになった(後述)。そのため、実力者が不在のときは大関が1人以下になるが、その場合は横綱が「横綱大関」と名乗って形式上は大関を兼ねる。横綱も含めて1人以下になった場合は関脇以下から補充しなければならないが、そのような事態は出現していない。

大関昇進後の待遇としては、協会から支給される月給が234万7,000円となり、関脇の時よりも大幅に増える。また両国国技館の地下駐車場に直接自家用車を乗り入れ、駐車することも可能となる(ただし、現役力士の自動車運転は内規で禁止されているため、別に運転手を確保する必要がある)。さらに、海外場所など、協会の公式の移動においては、飛行機ファーストクラス、鉄道(新幹線)では、グリーン席に座ることができる。化粧廻しの馬簾の色に紫を使えるのも、基本的には大関以上の特権である[1]。また師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる(これについては引退時に大関から陥落していた場合であってもこの権利は維持される)。

日本国籍を持つ大関力士は、協会が財団法人であった時代には、評議員として役員選挙の投票権をもっていた。横綱・大関の日本国籍をもつ力士の中から、地位・年齢を加味して4名まで選出されていた。この権利は、協会が公益法人となったときに廃止された。

大関への昇進

番付編成を所管する審判部が、ある力士を大関に昇進させたいと判断した場合、審判部長は、日本相撲協会理事長に当該力士の大関昇進の可否を審議する臨時理事会の開催を要請する。理事会での審議の結果、当該力士の大関昇進が決定すると、協会から使者が当該力士のもとへ派遣され、昇進伝達式が行われる。当該力士は、翌場所の番付発表を待たずに、この時から大関として扱われる[2]。よって昇進伝達式の後、翌場所の番付発表までは、大関ではあっても同じ大関の中での順位(東か西か、あるいは正位か2枚目以降(以前の張出)か)がまだ発表されていない状態となる(ただし近年のケースでは、翌場所の番付では新大関は原則同じ大関の中で最下位となる)。大関の推挙は、理事会の賛成を経て満場一致でなければならないとされ[3]、理事会で異議があったとしても昇進者は慣例的に「満場一致で賛成」された扱いとなる[4]。現行制度下では理事会において大関昇進が否決された例はなく、審判部長が臨時理事会の開催を要請した時点でマスコミ報道においては大関昇進が内定していると扱われている。

昇進の目安

大関昇進については横綱昇進における横綱審議委員会の内規のような明文化された基準は特になく、マスコミが推測するおおよその目安も時代により変化している。もっとも、協会は一貫して目安の存在自体を否定して、勝星数だけでなく相撲内容や印象(特に優勝の有無や直前場所の成績等)、番付編成上のバランス等も含めて総合的に判断される。そのため、勝星数で過去の例を下回りながら大関に昇進した力士、勝星数で目安を満たしながら大関に昇進できなかった力士が少なからず存在する[5]

年6場所制施行〜昭和50年代半ば

昭和期においては「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が30勝以上」が大関昇進への目安とされてきた[6]

1961年(昭和36年)5月場所を終えた北葉山の直前3場所は、8勝-9勝-11勝の合計28勝、1966年(昭和41年)7月場所を終えた北の富士の直前3場所は、8勝-10勝-10勝の計28勝でそれぞれ大関昇進を果たしている。この両名が年6場所制施行後では大関昇進直前3場所の最少の勝星数である。北の富士の場合では、当時大関は豊山1人という番付上の都合があるとされる。

一方、1957年(昭和32年)11月場所を終えた琴ヶ濱は直前3場所を12勝-11勝-10勝の合計33勝を挙げ、当時の目安を大きく超えた成績であったが直前場所が10勝留まりだった事などが評価を下げ、昇進できなかった。翌1958年(昭和33年)1月場所後を、11勝-10勝-11勝と全て関脇の地位で計32勝としたが再度見送られる。しかし次の3月場所を終え、関脇で直前3場所を10勝-11勝-13勝(優勝同点)の計34勝を挙げ、同場所で優勝決定戦に進出したことが評価されてようやく大関昇進を果たす。

1972年(昭和47年)3月場所を終えた長谷川の直前3場所は、全て関脇で8勝-10勝-12勝(優勝)の合計30勝を挙げ、目安を満たしかつ直前場所で優勝したことにより大関昇進が期待されたが、同場所中に大関同士(前の山琴櫻)の対戦が無気力相撲の指摘を受けたことなどにより大関の資質が問題視され、審判部が長谷川に対し「もう1場所見てから」と判断を慎重にし、昇進できなかった。次の5月場所も長谷川は直前3場所を10勝-12勝(優勝)-8勝の計30勝だったが再度見送られ、その後の長谷川は好成績を挙げられず、結局大関昇進は果たせなかった。

昭和50年代半ば〜平成初期

長谷川の例以降は、大関の資質や目安が昇進の問題にされる事例はしばらくなく、このころは、「30勝以上」からのちの「33勝以上」へと目安が変化する過渡期であるといえる。

1980年(昭和55年)3月場所を終えた増位山(太)は直前3場所を8勝-11勝-12勝の計31勝、1981年(昭和56年)9月場所を終えた琴風は直前3場所を9勝-10勝-12勝(優勝)のこちらも計31勝であるが、増位山の場合は当時大関が貴ノ花1人だけ、琴風の場合は大関不在という番付上の事情が絡み、大関昇進を果たしている。1985年(昭和60年)7月場所を終えた大乃国は、直前3場所を9勝-10勝-12勝の合計31勝であったが、「連続6場所関脇を守った」「横綱・大関とほぼ互角の力がある」ことが評価され、特に異論なく大関昇進を果たしている。

その一方で、1986年(昭和61年)5月場所を終えた保志(当時・のち北勝海)は直前3場所が8勝-13勝(優勝)-11勝の合計32勝を挙げたが、12日目に北尾(のち双羽黒)に敗れ4敗目を喫し優勝争いから脱落、また当時5人も大関が居た為に大関昇進を見送られる(この時点では前例の無い「6大関」を極力回避したい相撲協会の思惑があった為とも言われた)。だが翌7月場所では終盤迄優勝争いに加わり、保志は12勝を挙げ直前3場所を13勝(優勝)-11勝-12勝の合計36勝の好成績を残し、当場所後に文句無しの大関昇進を果たした(同時に北尾改め双羽黒も大関から横綱へ昇進した為、結果「6大関」は実現しなかった)。

さらに、1987年(昭和62年)3月場所の小錦が直前3場所を10勝-10勝-11勝の合計31勝を挙げるも、同場所前半戦で4敗し大関昇進は早々に消滅。翌5月場所の小錦は12勝で、直前3場所を10勝-11勝-12勝の合計33勝の成績により、当場所後ようやく大関昇進を果たす。小錦の場合も当時5大関がおり、昇進に高レベルの成績が求められていた(同じく大関・北勝海も横綱昇進を果たし6大関は成らず)。そして、同年7月場所も旭富士も同様直前3場所を10勝-10勝-11勝の合計31勝としたが昇進できず、翌9月場所に12勝で直前3場所を10勝-11勝-12勝の合計33勝とし、同場所後大関昇進を果たした(同時に大関・大乃国も横綱昇進し、次の11月場所は1918年(大正7年)5月場所以来69年振りの「4横綱4大関」の番付となる)。

平成初期の特殊な例として、琴錦1991年(平成3年)9月場所は前頭5枚目で13勝2敗で優勝、小結に戻った11月場所も終盤まで2敗で優勝を争い、当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)は連覇なら関脇を飛び越えての大関昇進を検討することを明言した。当時は横綱の休場、引退が相次ぎ、世代交代の時期に入っていたことが背景にある。結果、琴錦は千秋楽に破れて12勝3敗、優勝を逃して昇進はできなかった。なお琴錦はその前の1991年(平成3年)1月場所を終えて直前3場所を9勝-10勝-11勝の計30勝とし、旧目安ならば満たしている。ほかにこの時期に旧目安を満たした力士は栃乃和歌がいるが(1992年(平成4年)3月場所を終えて直前3場所を10勝-8勝-12勝(優勝次点)の計30勝)、やはり大関昇進は果たせていない。

平成中期以降

平成中期以降においては、大関昇進の目安は「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が33勝以上」で定着している。

大関に昇進した例では、1999年(平成11年)1月場所を終えた千代大海の直前3場所の成績は、9勝-10勝-13勝(優勝)の合計32勝であったが、直前場所の千秋楽で横綱・若乃花相手に本割り・優勝決定戦と連勝、逆転優勝したのを高く評価されて大関に昇進した。

2011年(平成23年)11月場所を終えた稀勢の里の直前3場所の成績は、10勝-12勝-10勝で合計32勝であったが、日本人力士が不調(大関以上は前場所昇進の琴奨菊のみ)、直前6場所を全て勝ち越し10勝以上が5場所という安定した成績、横綱・白鵬との幕内対戦が直近6場所で3勝3敗と互角の成績を挙げた事などが加味された[7]

2014年(平成26年)7月場所を終えた豪栄道の直前3場所の成績も、12勝-8勝-12勝で合計32勝だったが、それまで史上1位の14場所連続で関脇に在位していた事、また直前場所で鶴竜、白鵬と横綱二人を下し、さらに千秋楽では最後まで白鵬と優勝を争った大関・琴奨菊を倒した事などが評価され、大関昇進が決定した。

また、2015年(平成27年)5月場所を終えた照ノ富士は直前3場所が平幕込みで8勝-13勝-12勝(優勝)の合計33勝だったが、直前場所での幕内初優勝を果たした事が大関に相応しいと判断され、新大関となった[8][9]。なお大関昇進の3場所前が平幕の地位だったのは、1985年(昭和60年)11月場所後の北尾(のち横綱・双羽黒。前頭筆頭で12勝3敗)以来29年ぶりだが、3場所前が平幕で1桁勝ち星となると、1983年(昭和58年)3月場所後の朝潮 (4代)(前頭筆頭で9勝6敗)以来の32年前までさかのぼる[10]

2018年(平成30年)5月場所を終えた栃ノ心では昇進3場所前は平幕だったが、この場所を含め直前3場所を14勝(優勝)-10勝-13勝の合計37勝を挙げた好成績が高く加味され、文句なしで大関昇進した。大関昇進の直前3場所の起点場所が平幕優勝だったのは、1976年(昭和51年)9月場所の魁傑(1977年1月場所後に大関再昇進)以来で、平成時代以降では栃ノ心が初めてとなる。

但し、逆に昇進できなかった例としては、2002年(平成14年)1月場所を終えた琴光喜は13勝(優勝)-9勝-12勝の合計34勝だったが、昇進を見送られた。理由は、3場所前が前頭2枚目(13勝2敗で平幕優勝)だったこと、2場所前が9勝と1桁白星であったこと(平成以降の大関昇進者はほぼ2場所前は10勝以上)、また当時大関が4人もいたことが引っ掛かった。さらに大関取りが期待された同場所において3敗目を喫した内容があまりにも悪かったほか、自分より遥かに地位の低い前頭8枚目の武雄山に敗れた理由もあったといわれる。翌3月場所は直前3場所が9勝-12勝-8勝の計29勝に留まり琴光喜の大関取りは一旦消滅するも、5年後の2007年(平成19年)7月場所後に悲願の大関昇進を達成した。

2006年(平成18年)7月場所を終えた元大関・雅山は直前3場所を10勝-14勝(優勝同点)-10勝の計34勝と、大関再昇進に適う星取であった。しかし、直前の場所が10勝止まりだったことや、当時大関が既に5人いた(白鵬がこの場所綱取りであったが、翌場所に継続となった)ことを理由に昇進を見送られている。翌9月場所は直前3場所を14勝(同点)-10勝-9勝の計33勝としたが再び却下され、結局雅山の大関復活は成らなかった。

2010年(平成22年)1月場所を終えた把瑠都は直前3場所を12勝-9勝-12勝の計33勝としたが、2場所前が1桁勝ち星だったことや、上述の琴光喜や雅山のように、合計34勝を挙げながら昇進出来なかった例もあって見送られる。翌3月場所は14勝(優勝次点)の好成績により、異論無しの大関昇進を果たした。

2019年(平成31年)1月場所を終えた、当時新関脇の貴景勝は直前3場所を9勝-13勝(優勝)-11勝の計33勝としたが、過去2場所は小結であったことや、千秋楽で大関・豪栄道との敗戦内容が悪過ぎた事から見送られた。翌3月場所の貴景勝は14日目の時点で9勝5敗、千秋楽は角番大関(通算2度目)で7勝7敗の栃ノ心と取組になり、事実上の大関入れ替え戦を制して10勝5敗を挙げた(逆に7勝8敗と負け越した栃ノ心は関脇陥落)。結果、直前3場所合計34勝を挙げ、打出し後に貴景勝の大関昇進に向けた臨時理事会の開催が決定され、大関昇進となった。

大関昇進直前3場所成績(平成以降)

大関昇進直前3場所の合計成績で無敗(15戦全勝を3回、合計45戦全勝)を達成した者はこれまでに存在しない。

  • 関:関脇、小:小結、前:前頭
  • 四股名は、それぞれ大関昇進時に名乗っていた当時のもの。
昇進場所 四股名 3場所前 2場所前 直前場所 3場所合計
1990年(平成2年)5月場所 霧島一博 小10勝5敗 小11勝4敗△ 関13勝2敗○ 34勝11敗
1992年(平成4年)7月場所 曙太郎 小13勝2敗△ 関8勝7敗 関13勝2敗◎ 34勝11敗
1993年(平成5年)3月場所 貴ノ花光司 小14勝1敗◎ 関10勝5敗 関11勝4敗 35勝10敗
1993年(平成5年)9月場所 若ノ花勝 小14勝1敗◎ 関10勝5敗 関13勝2敗◯ 37勝8敗
1994年(平成6年)3月場所 貴ノ浪貞博 関10勝5敗 関12勝3敗 関13勝2敗△ 35勝10敗
武蔵丸光洋 関8勝7敗 関13勝2敗◯ 関12勝3敗 33勝12敗
1999年(平成11年)3月場所 千代大海龍二 関9勝6敗 関10勝5敗 関13勝2敗◎ 32勝13敗
1999年(平成11年)9月場所 出島武春 小9勝6敗 関11勝4敗 関13勝2敗◎ 33勝12敗
2000年(平成12年)5月場所 武双山正士 小10勝5敗 関13勝2敗◎ 関12勝3敗△ 35勝10敗
2000年(平成12年)7月場所 雅山哲士 小12勝3敗△ 関11勝4敗 関11勝4敗 34勝11敗
2000年(平成12年)9月場所 魁皇博之 小8勝7敗 小14勝1敗◎ 関11勝4敗 33勝12敗
2002年(平成14年)1月場所 栃東大裕 関10勝5敗 関12勝3敗△ 関12勝3敗△ 34勝11敗
2002年(平成14年)9月場所 朝青龍明徳 関11勝4敗 関11勝4敗△ 関12勝3敗△ 34勝11敗
2006年(平成18年)1月場所 琴欧州勝紀 小12勝3敗△ 関13勝2敗◯ 関11勝4敗△ 36勝9敗
2006年(平成18年)5月場所 白鵬翔 小9勝6敗 関13勝2敗△ 関13勝2敗◯ 35勝10敗
2007年(平成19年)9月場所 琴光喜啓司 関10勝5敗 関12勝3敗△ 関13勝2敗△ 35勝10敗
2009年(平成21年)1月場所 日馬富士公平 関10勝5敗 関12勝3敗△ 関13勝2敗◯ 35勝10敗
2010年(平成22年)5月場所 把瑠都凱斗 関9勝6敗 関12勝3敗△ 関14勝1敗△ 35勝10敗
2011年(平成23年)11月場所 琴奨菊和弘 関10勝5敗 関11勝4敗 関12勝3敗△ 33勝12敗
2012年(平成24年)1月場所 稀勢の里寛 関10勝5敗 関12勝3敗△ 関10勝5敗 32勝13敗
2012年(平成24年)5月場所 鶴竜力三郎 関10勝5敗 関10勝5敗 関13勝2敗◯ 33勝12敗
2014年(平成26年)9月場所 豪栄道豪太郎 関12勝3敗△ 関8勝7敗 関12勝3敗△ 32勝13敗
2015年(平成27年)7月場所 照ノ富士春雄 前2・8勝7敗 関13勝2敗△ 関12勝3敗◎ 33勝12敗
2017年(平成29年)7月場所 高安晃 小11勝4敗 関12勝3敗 関11勝4敗 34勝11敗
2018年(平成30年)7月場所 栃ノ心剛史 前3・14勝1敗◎ 関10勝5敗 関13勝2敗△ 37勝8敗
2019年(令和元年)5月場所 貴景勝光信 小13勝2敗◎ 関11勝4敗△ 関10勝5敗 34勝11敗
  • ☆はのちに横綱。◎は優勝、◯は優勝同点、△は優勝次点(タイ記録も含む)。
  • 貴ノ花は関脇まで「貴花田」、大関昇進時に改名。昇進後11場所目の1994年11月場所に「貴乃花」へ改名。
  • 若ノ花は大関昇進3場所前まで「若花田」、2場所前に改名。昇進後8場所目の1994年11月場所に「若乃花」へ改名。
  • 貴ノ浪、武双山、栃東は初めて大関に昇進した時の成績。
  • 琴欧州は、大関昇進後6場所目の2006年11月場所に「琴欧洲」へ改名。
  • 日馬富士は関脇まで「安馬」、大関昇進時に改名。
  • 2019年(平成31年)現在、太字は大関の地位(貴景勝は同年5月場所に新大関の予定)で、斜字は関脇以下の地位でそれぞれ現役中。



  1. ^ ただし、紫馬簾は関脇以下でも、横綱の太刀持ち・露払いを務める者は例外的に使用が可能。また、大関を陥落した者も引き続き使える。
  2. ^ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第12条
  3. ^ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第5条
  4. ^ 雅山の場合、所属する武蔵川部屋は当時横綱・武蔵丸、大関・出島と武双山がいた。この三力士と対戦しないことから、大関昇進を決める番付編成会議の段階では相当慎重な意見が出ていた。これまで唯一話し合いでは結論が出ず、多数決(賛成7名・反対3名)により大関昇進が決定した。
  5. ^ 大関昇進力士・昇進直前3場所の成績(大相撲海峡部屋)
  6. ^ 「相撲」2012年1月号
  7. ^ 稀勢の里が大関へ!基準満たさずとも大関昇進の裏事情(リアルライブ
  8. ^ 照ノ富士が白鵬自滅でたなぼたの優勝 またも“時期尚早”の大関誕生へ(リアルライブ)
  9. ^ 照ノ富士の大関昇進に賛否も関脇優勝なら「妥当」大相撲裏話(日刊スポーツ)2015年5月29日1時5分
  10. ^ ただし、北尾(東前頭筆頭・12勝(優勝次点)-西関脇・11勝-東関脇・12勝(次点))・朝潮(東前頭筆頭・9勝-西関脇・14勝(優勝同点)-東関脇・12勝(優勝次点))共に、直前3場所の成績は合計35勝。
  11. ^ 初代國技館完成後の東西制やそれ以前の東西対戦の時代には勝ち越せば番付が上がる体系ではなく、同じ側にいる他の力士との比較、あるいは東西を配置換えになる力士がいた場合はその力士の成績も加味して総合的に決めていた。
  12. ^ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第9条
  13. ^ 生き残りかける名2力士 幕内最下位・雅山と十両尻・高見盛
  14. ^ 照ノ富士の2018年5月場所は左膝の怪我により4日目から途中休場、11日目から再出場。
  15. ^ 幕下転落の照ノ富士が全休、6月に膝手術し現在入院 - 日刊スポーツ 2018年7月8日
  16. ^ 若羽黒は借金で年寄名跡を取得できず、琴光喜は野球賭博で解雇、エストニア出身の把瑠都は日本国籍を取得しなかったため。
  17. ^ 『相撲』2012年5月号37頁には「さすがに協会も『7大関』は作らないだろう」と記述されており、現在の感覚では番付編成上「大関は最多でも6人が限界」という見解が示されていると言える。


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