中畠晴辰 中畠晴辰の概要

中畠晴辰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/23 06:56 UTC 版)

 
中畠晴辰
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正18年(1590年)?
別名 中畑晴辰
官位 上野介
主君 小峰義親
氏族 大和源氏陸奥石川氏流中畠氏(中畑氏)
父母 父:中畠晴常
兄弟 晴辰晴時
右馬頭晴光、晴友

出自

中畠氏(中畑氏)は大和源氏陸奥石川氏石川有光の子の九郎光幹[1]前九年の役で戦功を挙げて、中畠(中畑)を称したことからはじまる(『白河古事考』)。

略歴

中畠晴常の嫡男として誕生。

晴辰は当初国神城を居城としたが、後に山城の必要性から隈井城(観音山館)を築城しそこに移り住んだ。その後、天正11年(1583年)に三城目城(鷹巣城、タカナシ館ともいい、永禄年間に城主の伊藤祐勝を追って支配下に治めていた)に移住し、隈井城は弟・晴時に与えた。

天正16年(1588年)には、辺見主膳正の居館の泉崎館を、跡継ぎ問題の内紛が起きたのに乗じて攻略した。

天正18年(1590年)の小田原征伐において、一族の小峰義親に参陣するように進言したが、義親は財政難を理由にこれを拒否していた。義親の小田原不参陣により晴辰は追放となり、旧縁を頼って相馬氏の下へ落ち延びようとするが、その途上の三春の行合村で落ち武者狩りの浪人・農民らに討ち取られた。

子・右馬頭晴光、晴友は、奥地の泉崎高屋に逃れて細々と暮らした。元プロ野球選手中畑清は晴辰の後裔である[2]

出典

  • 『矢吹町史』第1巻 通史編、第2巻 資料編Ⅰ
  • 『目で見る矢吹町史』
  • 『目で見る泉崎村のあゆみ』
  • 『中島村史』
  • 『白河風土記』(広瀬蒙斎

 


  1. ^ 詮持の弟光定の子とする説もある。
  2. ^ NHK『ファミリーヒストリー』2017年11月22日放送分


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