レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ
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選手時代経歴
15歳でフラメンゴのユースに入団し、17歳でトップチームでデビューを果たした[1]。当時のフラメンゴにはジーコ、ジュニオール、レアンドロ、ベベットなどの名選手が在籍しており、デビューイヤーのブラジル全国選手権で優勝した。1990年、サンパウロFCに移籍すると、彼やライー、その他の若きタレントたちはテレ・サンタナ監督からesquadrão tricolorと呼ばれ、自身2度目の全国選手権制覇を果たした。1991年にはスペインのバレンシアCFに移籍、ここで確固たる地位を築き、FCバルセロナやミランも興味を示していたが[2]2年後の1993年にテレ・サンタナ監督の希望でサンパウロFCに復帰[2]、移籍したライーに代わる10番として[3]、同年のコパ・リベルタドーレスで優勝し、インターコンチネンタルカップでは後に移籍することになるACミランと対戦、トニーニョ・セレーゾのゴールをアシストしてクラブ世界一に貢献した[4]。
- 鹿島アントラーズ
1994年、FCバルセロナ、ミランなどからオファーを受けたが、[5]ジーコからの誘いを受け[6]、Jリーグの鹿島アントラーズに移籍。1994年8月13日のヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決めた[7]。1995年のJリーグ・ニコスシリーズ1995年11月1日、第19節横浜F戦で決めた、5回のリフティングでディフェンダーを振り切った末のシュートは語り草となっており、2013年のJリーグ20周年企画「Jクロニクルベスト」では、過去20年のベストゴール第1位に選出された[8]。1996年のJリーグカップ4回戦、2ndレグ、名古屋グランパス戦で決めたゴールが鹿島でのラストゴールとなった[9]。鹿島での最後の出場は7月10日のJリーグカップ5回戦、ヴェルディ川崎戦の2ndレグ[10]。3年間でリーグ戦通算49試合出場30得点という成績を残した[7]。1996年にはフランスの名門パリ・サンジェルマンFCから移籍のオファーが来たため、鹿島を離れ難い心境からジーコに相談したところ、ジーコはレオナルドの将来を考え移籍を勧めた。同年のJリーグオールスターサッカーに出場しMIP賞を受賞、出場選手全員から胴上げをされ、日本を離れた[11]。 その後、1999年10月、ロベルト・バッジョと共に国立霞ヶ丘競技場で開催されたJOMOカップのゲストプレイヤーとして来日。外国籍選手選抜チームである「ワールドドリームス」の一員として参加し、久しぶりに日本のファンの前でプレーした
- PSG
1996年夏、移籍したユーリ・ジョルカエフの代役として[12]、パリ・サンジェルマンFCに移籍し、UEFAカップウィナーズカップ準決勝のリヴァプールFC戦ではチームを勝利に導くゴールを決めた。ここでは左サイドバックではなく、左サイドハーフやプレーメーカーなど中盤のポジションでプレーすることが多かった。
- ACミラン
1997年夏、数年間に渡って獲得を試みていたイタリアのACミランに移籍金850万ユーロで移籍した。卓越したプレーを見せ、1998-99シーズンは股関節炎のためフル出場は少ないものの、27試合12得点を記録してリーグ制覇に貢献した。4シーズンで177試合に出場して22得点を決め、ブラジル帰国を決めた2001年、ミラノでのホーム最終戦では、選手全員に「ありがとう、レオ」のTシャツを着て送り出された。去り際に「(移籍しても次は)イタリアでは絶対にプレーしない。マルディーニやバレージがいなかったとしても、ミラン相手に戦えない」という言葉を残した。ACミラン退団後は母国のサンパウロFCやフラメンゴでプレーし、一度は現役を引退するものの、シルビオ・ベルルスコーニ会長、アドリアーノ・ガッリアーニ副会長からの強い要望により、2002年10月から短期間だけACミランでプレーして現役生活を終えた。
ブラジル代表
1990年にはブラジル代表デビューを果たした。1994 FIFAワールドカップメンバーには左サイドバックとしてプレーした[13]。初戦は好プレーを見せたが、決勝トーナメント1回戦のアメリカ戦で、相手MFタブ・ラモスと競り合った際の動きが相手顔面への肘打ちと判定され、退場およびワールドカップの残り全試合出場停止処分を受けた[6]。1997年、背番号10を背負い同年のコパ・アメリカでは中心選手として優勝に貢献した。
1998年のフランスワールドカップでは右サイドのMFとして7試合すべてに出場したが、決勝で地元フランスに0-3の敗戦を喫した。グループリーグのモロッコ戦では彼のシュートがネットを揺らしたが、オフサイドの判定によりゴールは認められなかった。日韓ワールドカップ予選を最後にブラジル代表を退き、通算60試合出場8得点という記録を残した。
- ^ 「南米あの人にいま」footballista、ソルメディア、2009年4月15日号、37頁
- ^ a b “ミランか鹿島アントラーズか。24歳の現役ブラジル代表・レオナルドは日本を選んだ”. 集英社 (2022年1月25日). 2022年1月25日閲覧。
- ^ “サッカー世界遺産「南米最後の最強クラブ、サンパウロ」ページ2”. soccermagazine.jp. 2020年6月6日閲覧。
- ^ “週刊サッカーダイジェスト・メモリアルアーカイブ その3――1993年12月29日号 ”. soccerdigestweb.com. 2020年4月11日閲覧。
- ^ “どんなオファーも断り、ジーコとの約束を守った”. 集英社 (2022年1月25日). 2022年1月25日閲覧。
- ^ a b “現役バリバリ度MAXで来日 レオナルドの活躍とNo.1ゴールは色あせない ”. sportiva. 2020年4月11日閲覧。
- ^ a b “レオナルド ”. data.j-league. 2020年4月11日閲覧。
- ^ レオナルドのスーパーゴールがJ20周年の『ベストゴール』に選出 soccer king 2013年5月17日
- ^ “96Jリーグヤマザキナビスコカップ/Bグループ Round 4 2nd Leg ”. data.j-league. 2020年4月11日閲覧。
- ^ “96Jリーグヤマザキナビスコカップ/Bグループ Round 5 2nd Leg ”. data.j-league. 2020年4月11日閲覧。
- ^ 週刊サッカーダイジェスト 1996/7/24日号 P.17
- ^ “現役バリバリ度MAXで来日 レオナルドの活躍とNo.1ゴールは色あせない4 ”. sportiva. 2020年4月11日閲覧。
- ^ サンスパーク カップ1995(日本代表xブラジル代表) 大会公式パンフレット p10-11
- ^ Leonardo, a legend with big plans and high ideals、FIFA.com、2005年4月25日付
- ^ 元鹿島レオナルド氏が代表分析、オシム日本飛躍のカギはJの活性化 スポーツ報知、2006年11月1日付
- ^ ミラン レオナルド氏の監督就任会見 AFP BB News、2009年6月2日
- ^ 11位低迷ミラン、レオナルド監督解任も ニッカンスポーツ、2009年10月3日
- ^ ミラン、レオナルド監督は今季限りで退任 ニッカンスポーツ、2010年5月15日
- ^ レオナルド「大切な日本を襲った悲劇が一日も早く終息することを願う」 soccerking、2011.03.12
- ^ PSGのレオナルドに9カ月の停止処分 Goal.com、2013年5月31日
- ^ 元鹿島レオナルド氏、監督業復帰 soccerking、2017年9月29日
- ^ “ミラン復権への第一歩…レオナルド復帰が正式決定、ディレクター就任”. サッカーキング (2018年7月26日). 2018年8月9日閲覧。
- ^ “AC MILAN CONFIRMS DEPARTURE OF SPORTING DIRECTOR”. ACmilan (2019年5月28日). 2019年6月15日閲覧。
- ^ “Leonardo nommé Directeur Sportif du Paris Saint-Germain” (フランス語). FR. 2019年6月15日閲覧。
固有名詞の分類
ブラジルのサッカー選手 |
レナト・ソアレス・デ・オリヴェイラ・アウグスト ジョルジェ・ルイス・デ・アモリン・シルヴァ レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ レナト・カルロス・マルティンス・ジュニオール アントニオ・カルロス・サントス |
鹿島アントラーズの選手 |
中後雅喜 水筑優文 レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ 深井正樹 小林康剛 |
ブラジルのサッカー指導者 |
リカルド・ゴメス・ライムンド マルセロ・シャムスカ レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ アントニオ・カルロス・サントス バウディール・エスピノーザ |
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