レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ 選手時代経歴

レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 09:44 UTC 版)

選手時代経歴

15歳でフラメンゴのユースに入団し、17歳でトップチームでデビューを果たした[1]。当時のフラメンゴにはジーコ、ジュニオール、レアンドロベベットなどの名選手が在籍しており、デビューイヤーのブラジル全国選手権で優勝した。1990年、サンパウロFCに移籍すると、彼やライー、その他の若きタレントたちはテレ・サンタナ監督からesquadrão tricolorと呼ばれ、自身2度目の全国選手権制覇を果たした。1991年にはスペインのバレンシアCFに移籍、ここで確固たる地位を築き、FCバルセロナやミランも興味を示していたが[2]2年後の1993年にテレ・サンタナ監督の希望でサンパウロFCに復帰[2]、移籍したライーに代わる10番として[3]、同年のコパ・リベルタドーレスで優勝し、インターコンチネンタルカップでは後に移籍することになるACミランと対戦、トニーニョ・セレーゾのゴールをアシストしてクラブ世界一に貢献した[4]

鹿島アントラーズ

1994年、FCバルセロナ、ミランなどからオファーを受けたが、[5]ジーコからの誘いを受け[6]Jリーグ鹿島アントラーズに移籍。1994年8月13日のヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを決めた[7]1995年Jリーグ・ニコスシリーズ1995年11月1日、第19節横浜F戦で決めた、5回のリフティングでディフェンダーを振り切った末のシュートは語り草となっており、2013年のJリーグ20周年企画「Jクロニクルベスト」では、過去20年のベストゴール第1位に選出された[8]1996年のJリーグカップ4回戦、2ndレグ、名古屋グランパス戦で決めたゴールが鹿島でのラストゴールとなった[9]。鹿島での最後の出場は7月10日のJリーグカップ5回戦、ヴェルディ川崎戦の2ndレグ[10]。3年間でリーグ戦通算49試合出場30得点という成績を残した[7]。1996年にはフランスの名門パリ・サンジェルマンFCから移籍のオファーが来たため、鹿島を離れ難い心境からジーコに相談したところ、ジーコはレオナルドの将来を考え移籍を勧めた。同年のJリーグオールスターサッカーに出場しMIP賞を受賞、出場選手全員から胴上げをされ、日本を離れた[11]。 その後、1999年10月、ロベルト・バッジョと共に国立霞ヶ丘競技場で開催されたJOMOカップのゲストプレイヤーとして来日。外国籍選手選抜チームである「ワールドドリームス」の一員として参加し、久しぶりに日本のファンの前でプレーした

PSG

1996年夏、移籍したユーリ・ジョルカエフの代役として[12]パリ・サンジェルマンFCに移籍し、UEFAカップウィナーズカップ準決勝のリヴァプールFC戦ではチームを勝利に導くゴールを決めた。ここでは左サイドバックではなく、左サイドハーフやプレーメーカーなど中盤のポジションでプレーすることが多かった。

ACミラン

1997年夏、数年間に渡って獲得を試みていたイタリアのACミランに移籍金850万ユーロで移籍した。卓越したプレーを見せ、1998-99シーズンは股関節炎のためフル出場は少ないものの、27試合12得点を記録してリーグ制覇に貢献した。4シーズンで177試合に出場して22得点を決め、ブラジル帰国を決めた2001年、ミラノでのホーム最終戦では、選手全員に「ありがとう、レオ」のTシャツを着て送り出された。去り際に「(移籍しても次は)イタリアでは絶対にプレーしない。マルディーニやバレージがいなかったとしても、ミラン相手に戦えない」という言葉を残した。ACミラン退団後は母国のサンパウロFCやフラメンゴでプレーし、一度は現役を引退するものの、シルビオ・ベルルスコーニ会長、アドリアーノ・ガッリアーニ副会長からの強い要望により、2002年10月から短期間だけACミランでプレーして現役生活を終えた。

ブラジル代表

1990年にはブラジル代表デビューを果たした。1994 FIFAワールドカップメンバーには左サイドバックとしてプレーした[13]。初戦は好プレーを見せたが、決勝トーナメント1回戦のアメリカ戦で、相手MFタブ・ラモスと競り合った際の動きが相手顔面への肘打ちと判定され、退場およびワールドカップの残り全試合出場停止処分を受けた[6]。1997年、背番号10を背負い同年のコパ・アメリカでは中心選手として優勝に貢献した。

1998年のフランスワールドカップでは右サイドのMFとして7試合すべてに出場したが、決勝で地元フランスに0-3の敗戦を喫した。グループリーグのモロッコ戦では彼のシュートがネットを揺らしたが、オフサイドの判定によりゴールは認められなかった。日韓ワールドカップ予選を最後にブラジル代表を退き、通算60試合出場8得点という記録を残した。


  1. ^ 「南米あの人にいま」footballista、ソルメディア、2009年4月15日号、37頁
  2. ^ a b ミランか鹿島アントラーズか。24歳の現役ブラジル代表・レオナルドは日本を選んだ”. 集英社 (2022年1月25日). 2022年1月25日閲覧。
  3. ^ サッカー世界遺産「南米最後の最強クラブ、サンパウロ」ページ2”. soccermagazine.jp. 2020年6月6日閲覧。
  4. ^ 週刊サッカーダイジェスト・メモリアルアーカイブ その3――1993年12月29日号 ”. soccerdigestweb.com. 2020年4月11日閲覧。
  5. ^ どんなオファーも断り、ジーコとの約束を守った”. 集英社 (2022年1月25日). 2022年1月25日閲覧。
  6. ^ a b 現役バリバリ度MAXで来日 レオナルドの活躍とNo.1ゴールは色あせない ”. sportiva. 2020年4月11日閲覧。
  7. ^ a b レオナルド ”. data.j-league. 2020年4月11日閲覧。
  8. ^ レオナルドのスーパーゴールがJ20周年の『ベストゴール』に選出 soccer king 2013年5月17日
  9. ^ 96Jリーグヤマザキナビスコカップ/Bグループ Round 4 2nd Leg ”. data.j-league. 2020年4月11日閲覧。
  10. ^ 96Jリーグヤマザキナビスコカップ/Bグループ Round 5 2nd Leg ”. data.j-league. 2020年4月11日閲覧。
  11. ^ 週刊サッカーダイジェスト 1996/7/24日号 P.17
  12. ^ 現役バリバリ度MAXで来日 レオナルドの活躍とNo.1ゴールは色あせない4 ”. sportiva. 2020年4月11日閲覧。
  13. ^ サンスパーク カップ1995(日本代表xブラジル代表) 大会公式パンフレット p10-11
  14. ^ Leonardo, a legend with big plans and high ideals、FIFA.com、2005年4月25日付
  15. ^ 元鹿島レオナルド氏が代表分析、オシム日本飛躍のカギはJの活性化 スポーツ報知、2006年11月1日付
  16. ^ ミラン レオナルド氏の監督就任会見 AFP BB News、2009年6月2日
  17. ^ 11位低迷ミラン、レオナルド監督解任も ニッカンスポーツ、2009年10月3日
  18. ^ ミラン、レオナルド監督は今季限りで退任 ニッカンスポーツ、2010年5月15日
  19. ^ レオナルド「大切な日本を襲った悲劇が一日も早く終息することを願う」 soccerking、2011.03.12
  20. ^ PSGのレオナルドに9カ月の停止処分 Goal.com、2013年5月31日
  21. ^ 元鹿島レオナルド氏、監督業復帰 soccerking、2017年9月29日
  22. ^ ミラン復権への第一歩…レオナルド復帰が正式決定、ディレクター就任”. サッカーキング (2018年7月26日). 2018年8月9日閲覧。
  23. ^ AC MILAN CONFIRMS DEPARTURE OF SPORTING DIRECTOR”. ACmilan (2019年5月28日). 2019年6月15日閲覧。
  24. ^ Leonardo nommé Directeur Sportif du Paris Saint-Germain” (フランス語). FR. 2019年6月15日閲覧。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ」の関連用語

レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのレオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS