ルイーズ・ラベ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 08:24 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動生涯と作品
ルイーズ・ラベはリヨンに生まれ、この町にいくつかの邸宅を保有していた富裕な綱商人ペランと結婚した。夫の財産は十分にあったので、文学に魅せられた彼女は、書物が貴重で高価な時代にあって、ギリシャ語、ラテン語、イタリア語、フランス語、スペイン語の名著を取り揃えた。また、彼女はベルクール広場の近くに広々とした庭園を所有していた。
モーリス・セーヴやペルネット・デュ・ギエとともに、ラベは「リヨン派」に属していた。とはいえ、この派はリヨンで活動した詩人たちをまとめて呼ぶときの呼称であって、「プレイヤード派」が意味するような一つの詩派とは呼べないものではある(そもそもプレイヤード派自体に議論がある)。彼女の作品を読めば、彼女が同時代のリヨンで活動していた詩人たち、とりわけ出版業者ジャン・ド・トゥルヌの工房にゆかりがあったオリヴィエ・ド・マニやジャック・ペルチエ・デュ・マンと合作していたことが確認できる。
彼女が作詩に励んだ時期は、ルネサンス期フランスの詩人たちが旺盛に活動していた時期に当たっていた。この頃は、フランス詩がジョアシャン・デュ・ベレーの『フランス語の擁護と顕揚』(1549年)によって理論的基礎を与えられた時期である。また、カトゥルスやホラティウスのような古代の詩人やペトラルカのスタイルに従ったり抗ったりする形で、ロンサール、マニ、ポンチュス・ド・チヤールらが詩を作り、その文学的地位を高めた時期でもある。ラベの場合、彼女が知悉していたオウィディウスの『変身物語』やその他の作品、特に『名婦の書簡』などの影響を受けた。
彼女の文化はイタリア・ルネサンスの文化であるともいえる。彼女の作品「狂気と愛をめぐる討論」は、部分的にはエラスムスの『痴愚神礼賛』に顕れた狂気をめぐる認識に影響されているようである。彼女は多くの同時代人たちの前でペトラルカの最も有名なソネットのひとつを自己流で朗誦したりもした。
彼女はギヨーム・ド・ロリスを引き継いで『薔薇物語』を完成させたジャン・ド・マンの様式には断固として反対した。彼の様式は、ロリスの神話的で象徴的な物語を非常に凡庸な記述で引き継ぐものであり、著しく女性蔑視的でさえあったためである。
ラベの作品集は1巻本であり、その中には、のちにジャン・ド・ラ・フォンテーヌがその作品の中に寓話の主題の一つを見出すことになる「狂気と愛をめぐる討論」や、3つの哀歌、サッポーに続いて女性の情熱を謳い上げたことで有名な24編のソネットなどが含まれている。 以下に彼女のソネの一部を紹介する。
『第八歌』【前半】 | 【後半】 |
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われは生き、われは死す。われは燃え、われは溺る。 |
かくのごとく、アムウルは絶ゆる間なくわれを捉ふ。 |
『第九歌』【前半】 | 【後半】 |
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夜となりて、われ、柔かき臥床に入り、 |
ああ、甘き睡りよ、たへなる夜よ、 |
彼女は1566年にパルシュー=アン=ドンブで歿した。
ルイーズ・ラベに敬意を表したエピグラム
- Estreines, à dame Louïze Labé
- Louïze est tant gracieuse et tant belle,
- Louïze à tout est tant bien avenante,
- Louïze ha l'oeil de si vive etincelle,
- Louïze ha face au corps tant convenante,
- De si beau port, si belle et si luisante,
- Louïze ha voix que la musique avoue,
- Louïze ha main qui tant bien au lut joue,
- Louïze ha tant ce qu'en toutes on prise,
- Que je ne puis que Louïze ne loue,
- Et si ne puis assez louer Louïze.
このエピグラムは1556年に再版されたラベの『作品集』に収められたもので、クレマン・マロの作と推測されている。
- 1 ルイーズ・ラベとは
- 2 ルイーズ・ラベの概要
- 3 ルイーズ・ラベ非実在説
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