ルイージ・フェデルツォーニ ルイージ・フェデルツォーニの概要

ルイージ・フェデルツォーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:08 UTC 版)

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ルイージ・フェデルツォーニ
イタリア植民地相
任期
1922年10月30日 – 1924年6月3日
前任者TGiovanni Amendola
後任者Pietro Lanza di Scalea
イタリア内務相
任期
1924年6月17日 – 1926年11月6日
前任者ベニート・ムッソリーニ
後任者ベニート・ムッソリーニ
イタリア植民地相
任期
1926年11月6日 – 1928年12月18日
前任者Pietro Lanza di Scalea
後任者ベニート・ムッソリーニ
イタリア元老院議長
任期
1929年4月29日 – 1939年5月2日
前任者Tommaso Tittoni
後任者Giacomo Suardo
イタリア王立アカデミー会長
任期
1938年 – 1943年
前任者ガブリエーレ・ダンヌンツィオ
後任者ジョヴァンニ・ジェンティーレ
個人情報
生誕1878年9月27日
イタリア王国ボローニャ
死没1967年1月24日(1967-01-24)(88歳)
イタリア共和国ローマ
政党ファシスト党
専業文学者、政治家

経歴

1878年にボローニャで生まれ、1900年代末にボローニャ大学文学部を卒業する。大学生の頃から作家ジャーナリストとしての活動を始め、1910年にはエンリコ・コッラディーニ(en)らとともにイタリア・ナショナリスト協会(ANR)を設立[1]、イタリアにおけるナショナリズムの中心人物となる。

1923年のナショナリスト協会のファシスト党への合流後はムッソリーニ政権の下で植民地相、内相、元老院議長を歴任。内相時代にはアルフレッド・ロッコ法相とともに国家機構の強化に努め、OVRAの創設にも携わった[1]。1930年代半ば頃からはムッソリーニへの権力集中とともに政権中枢からは遠ざかっていたが、元老院議長、王立アカデミー会長として一定の影響力を残しつつ、ディーノ・グランディによるムッソリーニ解任の提案(グランディ決議)に対し、

我々は、イタリアを全面的破滅から救うためには、どんなことでも、あらゆることを、不可能なことでさえやってみなければならない。たとえ、我々の企てが失敗したとしても、我々の犠牲は反乱に火をつけ、国民を無関心から立ち上がらせる口火になるだろう。

として同意を与え、その立役者となる(グランディは後年、この時フェデルツォーニの同意が得られなければ決議案を破棄するつもりであったと述べている)[2]。解任後はドイツ軍による逮捕を逃れ、1967年1月24日、ローマで88歳の生涯を終えた。


  1. ^ a b フェデルツォーニ 『世界大百科事典 第2版』平凡社
  2. ^ 『ムソリーニ』7章2節


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