ラスール朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 08:25 UTC 版)
経済
貨幣
全てのスルターンが貨幣を製造した。貨幣は主にアデンやタイッズ、ザビード、そしてティハーマにあり、マッカ巡礼道の宿駅として栄えていた都市であるマフジャムで鋳造された[16][69]。ラスール朝の貨幣には生き物が刻印されており、鋳造された場所によって刻印が異なる。アデンで鋳造されたものには魚が、タイッズで鋳造されたものには座った人間が、ザビードで鋳造されたものには鳥が、マフジャムで鋳造されたものにはライオンが刻印された[16]。
税制
ラスール朝はインド洋世界と地中海世界を結ぶ結節点にあったことを利用して、支配下にある主要な港湾では入港税を徴収したほか、輸入品目ごとに細かく規定された関税、仲介税、また、また、カーリミー商人など商人の船を守るという目的で設立された海軍戦力であるシャワーニー船団の維持・運営という名目で、商人からシャワーニー税を徴収した[70][71]。こうした税制はアイユーブ朝のものが踏襲された[71]。このほかにも農業地帯からはハラージュが徴収された[72]。ただし、王族や高官、カーディー、ファキーフの私有地や遺産は免税対象となっていた[73]。
農業
イエメンはアラビア半島のなかで唯一可耕地をもつ地域であり、降雨と灌漑システムの発達によって「緑のイエメン」として知られていた。なかでもザビードを中心としたティハーマは農業生産性が高かった[63]。ザビードの周辺ではザクロやナツメヤシ、ショウガなどが生産されていた。それらは一度ザビードに集められてから各地に輸送されていた[74]。また、タイッズの周辺ではサトウキビが生産、加工されていたほか、タイッズの北方にあるジャナドでは肉や香料、香辛料が供給されていた[75]。
貿易
ラスール朝はイエメンからヒジャーズに至るまでの広域な支配を確立しており、国際運輸や貿易活動に大きな影響を及ぼした。ラスール朝はカリカットやクーラム・マライといったインドの諸都市、キーシュといったペルシア湾の港などとの通商関係を深め、国際運輸・貿易の一大中継地となった[25]。インド洋・地中海間の貿易に大きな影響力を及ぼすようになると共に、当時新興勢力として台頭していたカーリミー商人との間に緊密な連携が築かれ、彼らから安全保障費用としてシャワーニー税(保安税 / al-shawānī)を徴収することと引き換えに、支配下にある主要港の警備・監督官、徴税業務の長官にカーリミー商人の代表者を任命し、またワズィール(宰相)職にも登用した[76]。13世紀から14世紀にかけてカーリミー商人によるエジプト・イエメン・インド間の貿易が最盛期を迎え、この時期がラスール朝にとっても最も経済が安定した時期となった[77]。アデンには多数のインド人商人たちも集まり、イブン・バットゥータはアデンに出入りするインド商船の数の多さを記録している[78]。当時のアデンはまた、アラブ産の馬をインドに輸出する重要な中継拠点であった[78]。ナースィル1世の治世である1418年から1419年にかけては明の鄭和が率いる艦隊がラスール朝のアデンを訪れ、中国からの贈り物が献上された[79]。
注釈
- ^ 以下、マンスール1世と表記する。
- ^ この時代にはアッバース朝カリフは名目上の存在であったが、ムスリムの間では宗教的威信が保たれ、また、イスラーム法理論家はカリフの権威を認めていたため、独立君主にはカリフの承認が必要だった[15]。
- ^ 例えば、マンスール1世の姉妹のハーディムであったファーヒルという人物は1230年頃にマドラサを建設した。このマドラサは建設から100年経っても機能していたという[54]。
- ^ アイザーブは11世紀から14世紀にかけて紅海交易で栄えた都市である。しかし、14世紀半ば以降は他の港が発展したことでアイザーブの重要性は薄れた[56]。
- ^ ラスール朝の創設者であるマンスール1世はもともとハナフィー学派であったが、夢で預言者ムハンマドに勧められたとしてシャーフィイー学派に法学派を変更した[57]。
- ^ イエメン道と呼ばれた巡礼道はマッカへの主要な巡礼道のひとつであり、東アフリカやインド、東南アジアから訪れた巡礼者によって用いられた[64]。
- ^ 他にも、ヒムヤル王国時代にエチオピアから流入した人々や、ラスール朝以前の諸王朝による支配下で流入したアフリカ系の人々に起源を求める説があり、決定的なものはない[37]。
- ^ 第3代アシュラフ1世の息子であるアーディルに支払われた給与は2,871ディナールであり、第2代ムザッファル1世につかえていたマムルークや料理人など93人に支払われた給与の総額は1,156.5ディナールだった[89]。
出典
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