メーヌ・ド・ビラン
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参考図書
- 松永澄夫(編集) 編『哲学の歴史〈第6巻〉知識・経験・啓蒙―18世紀 人間の科学に向かって』中央公論新社、2007年6月、599-660(執筆:村松正隆)頁。ISBN 978-4124035230。
関連項目
- ^ 『哲学の歴史 6』中央公論新社、2007年。項目≪メーヌ・ド・ビラン≫(執筆者:村松正隆).600-601頁。 (以下、『哲学の歴史6』と略す)
- ^ (1).杉村靖彦『フランス反省哲学における神の問題』哲學研究575号、京都哲學会(2003年)。51頁.
(2).関連外部リンク“フランス反省哲学の分岐点(2.反省哲学とは何か)”. 2015年7月29日閲覧。 - ^ a b fr:Maine de Biran
- ^ a b c d 『哲学の歴史6』602-604頁.
- ^ 「ナポレオン・ボナパルト#帝国崩壊へ」
- ^ 「メーヌ・ド・ビラン」という呼称はこの時から使い始めている。(『哲学の歴史6』.604頁)
- ^ 「魂が粉々に打ち砕かれたとき、哲学は何の役にたとう」と1804年の書簡にビランは記している.(『哲学の歴史6』606頁および訳註3)
- ^ 『哲学の歴史6』605-608頁
- ^ 「フランス革命移行に学士院などを根城としながら諸学問の改革とその教育を目ざした人々の発想を一般に指している。」「経験論にのっとり、生得観念や宗教的観念を否定しつつ、啓蒙の理念を実地に推進しようとした。」イデオロジーの代表的な思想家としてカバニス、デステュット・ド・トラシーなどが挙げられ、広義の観念学派としてはスタンダールまで含まれ、分派的後継者としてオーギュスト・コントを挙げる論者もいる。(『哲学の歴史6』.575、595、613-615頁)
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