ベネディクト・アントニオ・アンジェリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 10:19 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2017年7月) ( |
この項目は亡くなったばかりの人物について扱っています。その人物の死の詳細や取り巻く環境また状況が知れ渡っていくに従い、この項目の内容もまた急速に大きく変化することがありますのでご注意ください。 |
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 |
ベネディクト・アントニオ・アンジェリ Benedicto Antonio Angeli | |||||
ラテン文字 | ANTONINHO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
![]() | |||||
生年月日 | 1939年2月10日 | |||||
出身地 | サンパウロ州 | |||||
没年月日 | 2021年6月3日(82歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
現役時代はボタフォゴFCなど、国内リーグでのプレーが中心だったが、セリエAのフィオレンティーナに所属したこともある。引退後もボタフォゴFCとの関りは深く、GM・監督から下部組織のコーチまで、様々な役職を務めた。
アントニーニョが日本でコーチをするようになったのは、息子のヘジスの様子を見にきたことがきっかけである。ヘジスは当時、旧JFLの柏レイソルに所属していたが、そのころの柏にはGKコーチが居らず、現役時代にGKだったアントニーニョが練習を手伝うようになった。その後、1994年に正式にGKコーチに就任し、その年のJリーグ昇格に貢献した。 1995年2nd ステージでは、最下位の成績で監督を解任されたゼ・セルジオの後任として監督に就任し、1stステージ最下位だった柏を建て直しセカンドステージは、5位に導いた。柏には1996年まで在籍し、1995年のNICOSシリーズでは監督を、1996年には総監督を務めた。
2002年にボタフォゴFCのGMを辞任してからはフリーだったが、2004年、清水エスパルス監督として9年ぶりにJリーグの現場に復帰したが、同シーズンの開幕から不振が続き、1stステージ終了後に辞任した。
2021年6月3日に死去した[1]。
選手歴
パルメイラスユース 1956-1957
ボタフォゴFC 1958-1959
ACFフィオレンティーナ 1959-1962
ボタフォゴFC 1962-1968
アメリカFC 1969
コメルシアウFC 1970
セルトンジーニョFC 1971-1972
指導歴
ボタフォゴFCジュニアチームコーチ 1977
ボタフォゴFCコーチ 1978-1981
アメリカFC (サンパウロ) 1982
ウベラバFC 1983
コメルシアルFC 1984
フランカーナFC 1985-1986
インダイアトーバEC 1987
ECピラスヌンゲンシ 1988
センタオンジーニョFC 1989-1991
ボタフォゴFCユース 1992-1993
柏レイソルGKコーチ 1994-1995
柏レイソル 1995.7月-12月
柏レイソル総監督 1996
ボタフォゴFC 1997
ピラスヌンガFC 1998
ボタフォゴFCコーチ 1999-2000
ボタフォゴFC・GM 2001-2002
清水エスパルス 2004
|
|
- 1 ベネディクト・アントニオ・アンジェリとは
- 2 ベネディクト・アントニオ・アンジェリの概要
- 3 タイトル
- ベネディクト・アントニオ・アンジェリのページへのリンク