ベネズエラの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/12 04:25 UTC 版)
分離独立とカウディージョの支配
ベネズエラの19世紀から20世紀初頭は、政治的不安定と独裁政権による支配、革命による政権の交代に彩られ、独裁か無政府状態が続いた。ボリーバルの危惧はベネスエラにおいて的中したのである。
1830年にホセ・アントニオ・パエスは第四代大統領に就任し、以降1847年までパエス時代と呼ばれる専制政治が続いた。独立戦争に資金を援助していたカラカスの商人や、従軍した将兵らは、植民地政府側の旧所有地の払い下げを受け、さらに先住民共有地や公有地の売却により土地集中の機会が増した[4]。これらの新しい土地所有者層は輸出用農畜産物の生産により経済的な力を増した[4]。欧米列強からの多額の借款で遂行された独立戦争の見返りに、列強に対する多くの経済特権が与えられて、外国に国家財政の支配を許すことになった[4]。
当時のベネスエラは中央集権的な国家だったが、パエスの連邦主義的な志向により中央集権派(ボリーバル派)は権力を持つことなく排斥された。こうした状況の中で1840年にはパエスに反対する勢力が反専制、反教会を掲げて自由党を結成し、1846年には内戦が起こしたがすぐに鎮圧された。その後1847年にホセ・タデオ・モナガスが大統領に就任すると、自由主義的な政治が進み、以降1858年までモナガス兄弟による専制支配が続いたが、これも反対勢力の攻撃にあって崩壊し、反乱軍の指導者だったフリアン・カストロが大統領に就任した。
連邦戦争
カストロは1858年に連邦主義的な1858年憲法を制定したが、連邦主義者の不満を宥めるには至らず、エセキエル・サモーラ、フアン・クリソストモ・ファルコンらの自由主義者が反乱を起こし、自由党派と保守党派の間で「連邦戦争」(1859年 - 1863年)が行われた。再び大統領に返り咲いていたパエスは1863年のコチェ協定で和解し、同年ファルコンが大統領の下にベネスエラ連邦が成立した。しかし、1868年にモナガス親子のクーデターによりファルコン政権は崩壊し、再び不安定な状態に陥った。
グスマン時代
1870年から1888年までをグスマン時代と呼ぶ。1870年に内戦を収めて政権を握ったアントニオ・グスマン・ブランコは、自由主義的カウディージョとして国内の近代化を進め、アメリカ合衆国とフランス、特にパリに憧れ、カラカスをパリ風に改造することに力を注いだ(当時のブエノスアイレスでも同じことが行われた)。18年間の在任中に反教会政策(1/10の税の撤廃、公教育の世俗化、教会財産の没収など)、鉄道の敷設、自由貿易などによってベネスエラの近代化を図り、特にベネズエラの鉄道のほぼ全てといって良い区間が、この時期にイギリス資本とドイツ資本によって開発されている。ボリーバルの名誉回復もブランコによって積極的に進められ、この時代にアルゼンチンやペルーでサン=マルティンがそうなったように、ボリーバルも国民統合のシンボルとして価値を再発見された。しかし、1888年にパリに外遊中に保守派や独裁に反抗する勢力の反乱により失脚した。この時代は経済のモノカルチャー化が進み、1880年代にはコーヒーが輸出総額の55%を占めるまでの主要産業となり、1890年代にはおよそ80%に達した。
1895年に英領ギアナ(ガイアナ)を巡ってのイギリスとの国境紛争があったが、米国の調停により和解した。しかし領土問題は今も続いている。
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