ビリー・ザ・キッド 生涯

ビリー・ザ・キッド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 01:07 UTC 版)

生涯

生い立ち

ニューヨークに生まれ西部ニューメキシコ州で育ったと言われる。生年月日には、パット・ギャレット著『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』に記された1859年11月23日説のほかに、9月17日説と11月20日説がある。出生地についてもニューヨークのほかにオハイオ州イリノイ州カンザス州インディアナ州ニューメキシコ州ミズーリ州など諸説ある。家族は母のキャサリーンとジョセフという兄(腹違いの弟という説もある)が1人いた。父親は研究者の間でも諸説あり、よく分かっていない。

出生名はウィリアム・ヘンリー・マッカーティ・ジュニアWilliam Henry McCarty, Jr.)で、母の再婚によってヘンリー・アントリムHenry Antrim)に変わった。州知事のルー・ウォーレス(『ベン・ハー』の作者)に恩赦を求めた手紙の中では、「牧場では自分は『キッド・アントリム(Kid Antrim)』と呼ばれており、アントリムというのは義父の姓である」と述べていて、雇い主のジョン・タンストールが故郷に残した手紙の中にもその名前が散見される。

アウトローとなり放浪中にも様々な偽名を名乗ったようであるが、最終的にはウィリアム・H・ボニーWilliam H. Bonney)と名乗るようになり、下記の墓石にも刻まれて後代広く知られるようになり、数々のビリーを描いたフィクションの中でも本名であると扱われた。

アウトロー時代

実際に家を出たのは母が死んだ15歳の時、最初の殺人を犯したのは17歳の時[4][5]である。

死ぬまでに21人を殺害した(メキシコ人インディアンは含まない)とする説もある(墓碑銘に記されている)。

アリゾナテキサス、さらにメキシコ国境で牛泥棒、強盗や殺人を重ねた。

リンカーン郡でイギリス移民ジョン・タンストールの売店の用心棒となったが、商売敵との縄張り争いが拡大し、リンカーン郡戦争と呼ばれる騒動に発展、過失で4人を射殺し、1880年12月に友人でもあった保安官パット・ギャレットによって仲間とともに逮捕されたが、1881年4月18日に刑務所を脱走した。この事件が『ニューヨーク・タイムズ』で報じられ、彼の名前が知れ渡るようになった。

2015年に発見された、クロッケーで遊ぶビリー・ザ・キッド(左)の写真(1878年)

射殺

1881年7月14日、ニューメキシコ州フォートサムナーでギャレットに射殺された。当時ビリーは丸腰で、寝室から食べ物を取りに部屋を出たところを闇討ちされたと言われている。寸前に発した最期の言葉はスペイン語の「誰だ?(¿Quién es?)」とされている。だが死の状況に不自然な点も多く、後に自分こそがビリー・ザ・キッドだったと名乗り出た人物などもおり、生存説も根強く残っている。

1882年にギャレットが出版した『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』によれば、ビリーは丸腰ではなかったとされる。また1906年、ギャレットは『無法者の物語』の著者エマソン・ハウにビリーの死の状況について語っている。その話によれば、ギャレットはビリーが銃を構えたので正当防衛のために射殺したと主張している。

ビリーの墓

ビリーの墓石は度々洪水で押し流されたり、盗難に遭ったりの災禍を経た後、現在の元の墓所と思われる場所に安置し直された。しかし、その後も彼の人気故に記念品として削られたりして持ち帰られてしまうため、現在は檻に囲われている。

墓石の前に設置された石碑には、このような墓碑銘が刻まれている。

墓碑銘
Truth and History
21 Men
The Boy
Bandit King
He Died As He Had Lived
William H. Bonney "Billy the Kid"

(真実にして経歴。
21人を殺した。
少年
悪漢王。
彼は彼らしく生きて死んだ。
ウィリアム・H・ボニー「ビリー・ザ・キッド」)

  1. ^ Rasch 1995, pp. 23–35.
  2. ^ Wallis 2007, pp. 244–45.
  3. ^ a b “西部劇の英雄、恩赦ならず/米のビリー・ザ・キッド”. 四国新聞社. (2011年1月4日). https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20110104000090 2017年2月10日閲覧。 
  4. ^ Radbourne, Allan; Rasch, Philip J. (August 1985). “The Story of 'Windy' Cahill”. Real West (204): 22–27. 
  5. ^ This Date in History – August 17, 1877 – Billy the Kid kills his first man”. History Channel. 2016年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年1月17日閲覧。
  6. ^ ルー・ウォーレス#戦後の経歴を参照
  7. ^ “伝説の無法者ビリー・ザ・キッドに恩赦認めず、米州知事”. AFP. (2011年1月1日). https://www.afpbb.com/articles/-/2781059 2017年2月10日閲覧。 
  8. ^ ビリー・ザ・キッド、死後130年後の恩赦認められず”. 2011年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年1月4日閲覧。
  9. ^ 西部の英雄、2億円弱で写真落札”. ロイター (2011年6月26日). 2017年2月10日閲覧。
  10. ^ “ビリー・ザ・キッドの希少写真、6億円で売却へ”. CNN. (2015年10月16日). http://www.cnn.co.jp/fringe/35072018.html 2017年2月10日閲覧。 






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